鹿友会誌(抄)
「第三冊」
 
△先輩紀伝
○奈良宮司翁   十灣 内藤調一
 翁、諱は眞守養齋と号す、俳号を東岐と云、青山金右衛門の二男にして、奈良直右衛 門に養はる、幼にして聡慧、先考天爵翁の門に入り、句読て受け、長するに及んて、経 史を授けらる、嘗て曰く、人の子たる者、能く親を養はんと欲せは、医事に渉らさる可 からすと、即ち亦先考に就て医を学び、又大舘人黒澤氏に従学す、又江戸に入る毎に 泉澤履齋・東條一堂二翁の間に游て経説を受け、学業日に進む、
 弱冠を超えて銅山奉行金矢氏の于役に従て、大坂に上り、留る事三年、京坂諸賢の門 を叩き、其説を問ひ、又著名の俳人八千房の門に入り、俳諧を研究し、入室の称あり
 
 家に帰り、直ちに挙られて、山先(坑民の長にして山を相し、鉱物の所在を探り、坑 夫を指揮して採掘せしむるの職にして、銅山第一等の声威ある吏なりき)となる、
 氏性博識多智処事、其の機に当らさるなく、大に坑民の親信を得、翁の担任する所の 坑穴にして、出鉱の盛んならさるなく、屡推賞を受く、
 又救恤を好み、恒に貧困者を賑はす、或は疾病者あれは、自ら治を施し、其報を受け す、故に山民悉く悦服す
 
 中年、官、挙けて士籍に列す、鉱山奉行となし、諸山に差遣す、至る処、功効の著れ さるなし、
 翁、固読書あり、詩を能くし、俳諧を能くし、又諸技芸に通し、而して人と為り英邁果決、当時一藩 士大夫中、其右に出つる者なく、同時新渡部傳の如き深智宏量、彼の三本木野を開拓し て、一大村落の創建を見るも、猶其人と為りの一斑を知るに足る者、翁と双称して、両 雄の評あるに至る
 
 然して彼の無学なるは、翁に一歩を譲る所と言へり、然れども翁、其身、微賎より出 て、劇かに顕職に上り、且其豪俊の気、落々人を凌かんとす、故に俗史小人、妬忌讒謗 至らさるなく、遂に微罪を構誣て黜けらり、禁錮せらるゝ事年余、而して 翁、少も鬱悶の色なく、姿態毎に夭々たり、
 禁解くるに及て、意を塵世に絶ち、家に蔵書万巻あり、晨誦夜読少も怠らす、倦めは 則ち月に吟し花に咏す、或は儒士を招て古今の興亡を談し、或は騒客と交り詩を賦し俳 歌を詠す、又時々書画会を催ふして興を遣り、閑あれは瓢酒を携へ往て山水の間に逍遥 し、一に風韵に従事す、
 又性客を好む、来客虚日なし、客到れは雅俗を不問、即ち置酒対飲、皆歓を尽して還 る、偶客来らされは、日夕、生徒を集めて独酌快飲、忠孝節義の由を話し、興酣なれは 、或は朗吟起舞、其平生の厳粛に似さる事あり
 
 翁、其平生斯の如し、噫藩府狭まからすと雖とも、士大夫少なからすと雖ども、鹿角 産の此の一田舎、漢の此の境遇に彷彿たるものあるや否、
 故を以て、闔国の人、知と不知となく、皆翁を景望し、其の子弟の教養ほ希ふもの多 く、塾生毎に数十人、且食客常に堂に満つ、
 翁、家甚た富ます、家計の或は給せさるを虞はかり、往昔学ふ所の医業を開く、則ち 其治を乞ふもの日に門に相踵く、貧人に施療する事亦昔日に異らす、或は狡猾者不貧して 酬いさるものあるも、恬として顧みさるなり、又春秋多く幼児を募集し、種痘を施し、 必す其報を謝絶す、而して世、其起死回生の術妙なるを伝称し、遂に国公の聞に達し、召 されて侍医となり、効を奏する事屡なり
 
 幾許なくして勘定奉行となり、累進して大監察となり、終に用人に准するに至る、
 当時藩庁の職務皆俗吏の手に落ち、旧習に拘泥し、百端慣例を株守し、唯私利是れ営 み、公利を顧みさるの風習なりしを、翁、職に就くや、宿弊を撥し公益を謀る、姦蠧 胆寒し、事に当ては敢て言ふ、権貴を憚らす、
 故を以て、翁の官に在るや、屡は斥けられて、屡は就く箪笥役人の綽号あるに至る
 
 翁、平生勤王の志深く、神皇の系譜を装黄(三水+黄)し、之を壁に掛け、毎晨礼拝 し、又夙に皇室の式微を嘆す、安政万延の際、海内紛然万機親裁に渉らさるを得さるの 勢に迫る、而して内帑貝(此冠+貝)せす、皆勤王雄藩の力を頼む、鴇に翁、有司に建 議して、国入の内一万石を年々朝廷に献せんと請ふ、容れられすして止む、又楢山佐渡 氏の秋田を討つや、翁、人に語て曰く、秋田を略するは易々のみ、独り討ち了する後、 何の辞か以て朝廷に白さんと、佐渡氏事敗るゝに及て、人皆其先見に服す
 
 翁、性至孝、而して其身を立つるの日は、父母已に亡し、故に其忌日に当てや、之を 祭る盛美を尽し、又霊前に於て孝経を誦し、而して子弟をして亦之に傚はしむ
 翁、性質素倹節、其衣食住皆淡泊を旨とす、顕職に在る時と雖も、平生の如し
 翁、交り広し、四方来翰毎に山積し、即ち生徒に命し、之を整理し、其余白を切断、 之を糊継せしめ、以て簡牘の用に供するに至る、然れども有事に当ては、千金を費すも 、顧措する所なし、其書冊を蔵むると、武器を蓄ふるとは、府下匹稀なるを見て、其一斑 を知るに足る
 
 嘗て年凶、士人の困窮するもの、笠以て面を蔽ひ袴を着けす、唯一小刀を帯ひ、街衢 に彷徨して物を乞ふもの陸続たり、翁の家に来り、乞ふものあれは、之を客室に引き、 恭しく酒饌を饗し、物を与へて、遣り還へす、唯皆家人をして周旋せしめ自ら出てゝ見 す
 当時藩制、他藩の士人を留宿せしむるを禁す、翁、其の固陋を冷笑し、凡そ一芸を狭 むより以上の遊歴人にして、其門を叩くあれば、必す歓待投宿せしめ、談笑揮洒、客、 之に安んす、故に其邦国の風土民俗より物産盈虚等に至るまて、審かに聞く事を得、当 時未た新聞紙あらすと雖も、翁は坐して天下の形勢を暗知せしなり、明治五年十一月、 家に老死す、年七十、盛岡源勝寺に葬る
 
 辞世
 初雪や我か行く先きは此さかり
 
 野史氏曰、予才駑筆鈍、養齋翁の行事を尽す能はす、唯嘗て其塾に在り、親炙する事 数年、故に其平昔を詳にするを得、其言貌挙作、今猶目想にあり、今世中興偉業者を挙 くれば、首として指を南洲松菊甲東等諸氏に屈せすんはあらす、竊かに謂ふ、若し翁を して時運に際遇し、其才を伸ふるを得せしめは、其所為必す諸氏の下に立たすと
 
 長子眞令、箕裘を継き読書あり、医術に巧みに、又鎗術に名あり、書は顔公を慕ひ、 墨蹟飛動、世の伝称する所なり、二男富彌、菊池氏を継き、馬術を能くし、藩国中に 逸出せり、三男眞志、嘗て華頂宮に従て欧州に游学し、還て海軍に挙られ、累進して主 計大鑑に至る、別に家を起す

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