鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△田中傳吉君経歴(附追悼記)
  弔詞
 郷土の長老として、徳望遠近に洽く一般民衆の敬仰措かざりし、元町長田中傳吉氏、宿病癒へず、 医療其力を尽されたりと雖も、薬石遂に効を奏せずして、去んぬる廿三日午前一時溘焉として永眠せらる、 落花枝に上らず、流水逝いて還らず、我等は無限の悲愁を抱き慟哭するの外なし、哀悼何ものか 如かん、
 
 惟みるに田中氏は資性謹厳、識見高遠にして信義に厚く、権門に屈せず、所信に直進して、百難を 恐れず、蓋し当代稀に見る偉材たり、
 明治四十年四月選ばれて町会議員となり、大正二年十月郡会議員に当選せられて以来、郡政町政に 参与せられたること前後三十有余年、郡治町勢の進展に寄与せられたる功績鮮少なりとせず。
 
 明治四十三年五月、衆望を負ひて花輪消防組初代組頭に就任以来、昭和十四年消防組制度改組に至る まで、明治、大正、昭和の三代に亘り、実に三十年を一貫して終始渝らず消防組織の強化拡充に、 消防能力の向上に専念し、郷土保安の為め献身的努力を払はれ、其間消防再興の栄誉たる、金馬簾を 授与せらるること、前後四回に及ぶ、花輪警防団の今日ある、偏に氏の功績に由らずんばあらず。
 
 明治四十三年二月、花輪町収入役に挙げられ、徴税会計事務に励精せられ、対象六年十一月以降、 助役に推薦せらるること、前後三回に及び、大正十三年十一月、町長に就任せられ、以来鋭意、町勢の 進展を画せられしが、当時郡内に一の中等学校なきを遺憾とし、且つは皇国中堅女性を練成し、 将来の健全なる日本母性の素地育成強化するの高度国防国家建設上、女子中等学校の建設の 急務なるを痛感せられ、就任旬々、現花輪高女の前身たる、花輪実科高等女学校の設立を企画せられしが、 当時四囲の情勢実現困難なりしを、東奔西走、飽くまで之れが貫徹に邁進、鋭意努力せらるること 一年有余、其労苦空しからずして、大正十五年三月設立認可を得、同年四月開校を見るに至れり、
 今や花輪高女の校運隆々として、二学級制に躍進し、七百余名に上る卒業生は、到る所、中堅婦人として、 社会各方面に活躍し、或は良妻賢母として家庭を始め、或は職業戦線に躍動する等、明朗快活なる活動の 下に、国家に貢献する所、尠からざるものあるは、一に氏の施策に係る余沢といふべし、
 
 更らに氏は、鹿角郡農会長として産業の開発に努力せられ、郡民の福祉増進に貢献せられしこと多年、 其の他大正二年以来晩年に至る迄で、所得税調査委員・営業税調査委員、調停委員の職に在り、課税の 公正税改革に寄与せられたる功績、亦尠なしとせず。
 今や史上空前の重大時局に際会し、一億一心、生産拡充、戦力増強に邁進すべき秋、其の手腕に俟つ べきもの今後益多からんとせしに、幽明境を異にし、温容遂に接する機なし、洵に哀悼の至りに堪へず、 希くは英魂安らかに昇天せられんことを。
 
 茲に聊か薄資を供へ、虔んで哀悼の微衷を捧ぐ。
  昭和十八年七月廿六日
     花輪町長 淺利佐助

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