鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△内田平三郎君経歴
 君の経歴は、年次を追ふて、其の御遺族より、資料を頂くには、不可能なる事情あるので、 編輯子の知てる範囲を以て記述致しますことを御諒察下さい。君の長子たる平藏氏は、 幼より其の父君と生活を共にして長じた方ではない、従ふて資料の御提供は不可能であらうと 思ひますからであります。
 
 君は鹿友会員としては、上古史中の人物であって、現今の顧問の方々と曾ての時代、 爾汝の友であったのであります、夙に郷里尾去澤に帰りて、尾去澤村長たること数次、 其の間秋田県会議員又は副議長たること二三回、県会に於いては鹿角の内田として、其の 存在を重視せられた時ある人である。
 今日の好摩・大館鉄道の開通の先駆をなした、花輪鉄道は実に君と豊口竹五郎氏の尽力に 依るものであります、鹿角に遺した功績としては其ればかりでも、男子の面目として充分 だものであります。
 
 君は学校は今日の法政大学の前身たる、和仏法律学校の出身者であります。生家は鹿角でも 有名な名家であったので、俸給生活者たる念なく、帰農の生活をしたものと考へます。実家は 名家、新しき教育を受た人として、郷里では無視して置かれず、嘱望の中心となって、迎へられて 村長となったのでありました。
 
 公の生活のおいては、成敗相半ばしてあったとも申されませうが、私の生活においては、全く 英雄収斂、即ち神仙とでも評すべきか、其の御妻子等は、全く君の欲するまゝの行動を以て臨み、 少しも顧慮する所なきものの如く考へさせられるものであった事は、凡夫の忖度を許されぬ行蔵 であった。自ら招き求めたる波瀾重畳たる生活は、其の意那辺にあったか推察出来ないものあった。
 
 然るに内田家の家風は、有名の家風であった為め、君の御家族の御精神は、昔ながらの内田家の 人々の御精神で、晩年其の御妻子と共棲するに至るも、御家族は毫も恨みず、一番家庭の重い人、 貴い人、大切な人として、尊敬啻ならず、出入起臥、必ず礼を忘れず、昔日多年苦労を与へられた 事など恨みとして表はすことは、全くないといふ有様であった、父、父たらずととも、 子、子たるの道徳は、強く敬服せられるものあった、
 余の春秋の筆法に擬して、此の記事を書くもの、内田家の家風を讃へ後世に遺さんとする外に、 壮時の人間内田君を髣髴せしめんとするにある。
  昭和十八年一月十七日歿
  法名 俊徳院悉道隆居士

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