鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△佐藤賢治君の経歴
一、明治十八年三月十五日 秋田県鹿角郡花輪町に生る
一、明治三十八年三月三十日 岩手県立盛岡中学卒業
一、、明治四十三年七月八日 東京蔵前高等工業学校機織科卒業
一、同年七月十日 三井物産機械部勤務
一、大正五年五月 都合に依り同社退職
一、大正五年五月 川崎系日本商事株式会社入社
  魯国政府註文三吋野砲甲砲弾附属品信管二十万発製造工場へ資金支出の関係上、製作 並に会計監督として、大正六年七月二十日出張を命ぜられ(品川区須崎工場)同年九月 大阪支店勤務を命ぜらる
  株式会社日本紡績機械製造所兼務を命ぜらる
  大正十一年八月三十日都合に依り退社
一、大正十一年九月一日 独乙カーチング商会機械部長として就任、明石製作所も兼任す
一、大正十二年一月 石川島造船所嘱託となる
一、大正十三年四月 石川島造船所及明石製作所より満洲各地出張
一、昭和五年一月 右二社退社
一、昭和五年一月 大阪栗本鉄工所嘱託となる、東京支店勤務、二年の後大阪本社詰となる、 社命により満洲各地視察、帰阪半年にして再度満洲大連三井物産の借用各地出張約八ケ月、 昭和十一年二月帰阪静養
一、昭和十二年 静岡県下田町下田船渠株式会社常務取締役兼技師長として活躍中、十五年 二月十八日罹病、十五年六月十六日下田町に於て急逝す、行年五十六歳
  法名 寛厚院賢心道秀居士
 
  追憶記
 君、円転滑脱、圭角のない人で、人に対するに甚だ感じのよい人であった、学生時代は学問も 出来たといふ話もあり、実業人タイプの具備した人であった。君、常に家人に語りて曰く、 俺れは資産を遺し能はざるも、死後、汝等に力になって呉れる様な人物を遺す、と申して居た との事であった。其の平常の交遊する友に交るに、必ず此の人の信義を期待せらるると信ずる 交際をして居た為めと思はれる、交遊雑ならざりし為めであらう。
 
 君の前記経歴書を見るに、一所懸命でなく、転々と其の職を転じたる理由と原因を詳にせざるは 残念である。或は君の処世観は飛躍的を念願して、順序よく一段一段の地味な緩慢な成功を 期せざりし為めかも知れぬ、此の世の中には冒険で成功するあり、石橋叩いて式で成功するあり、 絶対の公式は無いとも考へられる、成敗は要するに運の一字で片附られるものでないだらうか。
 
 君に就いて吾人の最も感心するのは、東京に居る間は、如何に多忙でも、鹿友会の会合には欠席 したことの無い人であったといふことである。年齢は漸く高く、金も出来、位置も進む様になると、 会の出席などは懶くなり、却々顔を見せなくなる人も多いが、君は全く其の様な事なく、会を愛し、 同郷人と語るを楽しみ、後進には決して懸崖近くべからざる堅苦しい態度は見せず、子の如き学生とも 能く談して近づけ、親しみて呉れる人であった。今日尚ほ長生せば、下田造船の主人公として、 造船報国に大いに貢献して居たろうに、惜しき人を喪ふたものだ。

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