鹿友会誌(抄) 「第四十五冊」 |
△關琴一郎君経歴 一、明治二十八年一月八日 尾去澤村に生る 一、同四十二年三月 小坂高等小学校卒業 一、大正三年三月 東京私立京華中学卒業 一、同七年三月 小樽高等商業卒業 一、同年同月 久原鉱業会社入社 一、同十年四月 京都帝国大学経済学部入学 一、同十二年九月 豊羽鉱山休止につき久原退社 一、同十四年六月 太平洋海上火災保険株式会社に入社 大阪支店次長より本社会計課長に転ず 一、昭和四年一月 川村女学院幹事となる 一、同十二年一月 日本鉱業会社へ入社、青森県上北鉱山初期経営に当る 一、同十五年十月 日鉱の専務今井喜代志氏、日本産金振興会社入社々長となるに当り、 社長秘書庶務課長となる 一、昭和十七年二月廿五日 急性肺炎にて長逝す 法名 清鐘院圓光普照居士 行年 四十八歳 追憶記 君は温良恭識の君子人であった、又篤学の人でもあった、境遇を克服して向上に精進する 其の精神力は素晴らしいものあった、君は一生涯中、恐らくは嘘を言ふた事はないかも知れぬ、 斯く述べ来たれば、君の為人は如何なる人であったかは、大抵偲ばれるでありませう。 故に人の知遇を受くるの徳を有して居た、鹿友会の先輩たる石田男爵、川村閣下等よりは、 特別の寵を蒙て居た。 日鉱専務今井氏は、産金振興の社長となるや、君は其の秘書長兼庶務課長として抜擢せられ、 君の大成は将来に約束せらるる曙光は閃いて来たのであった。君も鹿友会より受けた御恩諠 に報ゆられることとなりましたから、期待して下さいと言ふて居た。貸費を受けた在京会員 を以て団結をして、奨学金滞納解決運動をして、大いに後進の隘路を開拓すると、故高杉 八彌君等と語て居たものである。然るに両君共に長逝せられて、一頓挫を来したのを残念と 思ふ、君は奇策縦横の才人ではない、巧言媚態の妙手でもない、重厚の人として、当世に 稀れなる若人と申すべき人であった。此の長所は、買はれて大いに将来刮目せられるもの あるに至りて、急逝せられたるは、実に惜しみても余りある人を喪ふたるを悲しむもので ある。 |