鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△病後の信一郎様   中島織之助
 私が慶応病院に十ケ月も厄介になって、稍々小康を得て退院したのは十六年七月の末 であった、私の入院中、君は時々病院に見舞って下って慰めてくれた。
 
 元来君は格別健康であって、健康自慢の人であった。登山愛好者で徒歩主義者で、健脚 健啖の人であった。従て常に十六七貫の体躯の持主であった。一生を通じて親しく交際した 私も、君の病気といふことを耳にしたことはない、君の健康自慢も当然と是認し、常に 羨やましく思って居たのである。
 
 私が退院すると、何時もならば直ぐ来て喜んでくれる君は、約一ケ月経っても音信はない、 本社に転勤早々で忙はしいのだらふと解釈して居ったら何事ぞ、君としては全く何事ぞである。 急性肋膜炎で慶応病院に入院したりとは、全く事の意外に驚いた。
 一ケ月位いとの予定は二ケ月過ぎても、三ケ月過ぎても熱は落ち付かない、遂に六ケ月間 入院し翌十七年二月、漸く退院は許された、退院後の保養地として熱海を選み、直ちに熱海 に転地することにした。
 熱海は三本松の生々寮を本拠とした、生々寮は大分気に入ったらしく、三月廿録日のハガキに 左記の通り書いてあった。
 
 二十日から石川様のところに御厄介になって居ます、いくら探しても私のやうな病後を養ふ のに、こんなにいいところはないと思ひます、毎日刺身計り食っています、この外にも魚は 何かしらあります云々
 春潮や大島初島をちこちに 十四樓

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