鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△佐藤忠彌氏
 
三、氏の自主自営
 既に軍隊生活を終りたる氏は、他人に雇はれて生活するを以て屑とせず、痩せても枯 れても男子は宜しく一本立ったるべしと、京極月島に於いて先輩と共同して鉄工業を創 始した是れこそ氏の産業界第一歩であった、後共同事業を清算して独立事業を経営する に至る時に大正十一年なり。
 
四、氏の産業界第一歩
 既に述ぶる如く、大正十一年小規模ながら独立事業を創始するや、其の内に協力せる 肉親愛の涙くましき事実は逸し難きものあり、寧ろ世に教へるに十分なるものとして、 少しく紹介致して置きたい、氏の実弟曰く勇次郎氏曰く、省三氏曰く喜代見氏の兄弟四 人火の玉となって協力戮心して活動し、加之親類骨肉の人々之れに参加し、鉱山魂の結 束して時間を忘れ休日を忘れて真剣の活動せるものは、蓋し氏の今日の成功を得せしめ たる最大の原因と称せらる、内に此の共和の協力ありてこそ、氏の成功を決定的とせる ものにして、世間往々聞く所の兄弟垣に鬩くが如さ醜あらんか、今日の成功は思ひもよ らなかったであらう、今日は此の元勲達は勇次郎氏は取締役部長省三氏は取締役高林工 場長兼営業部長喜代見氏は取締役なるも別に下請工場を経営し、其の他の親類の功労者 皆要位にありて会社を牛耳りつつあり。
 
五、氏の第二期産業界飛躍
 昭和五年、兄弟協力の結果は報られ、合名会社となる、其の間約十ケ年の星霜は夢の 如くに過きたり。然れども氏より見れば大きな物を産む産みの陣痛時代である。荊棘 の道でもあった、遣り繰り算段の苦痛時代でもあった。此の石の上にも三年の堅忍不抜 は所謂克難を経て昭和十四年株式会社佐藤鐵工所として、巍然たる大工場として、産業 界に台頭するの成果に至りしものなり。
 
六、氏の第三期飛躍
  昭和十四年資本金四十万円の株式会社佐藤鐵工所となってから、業績逐年向上し、 取引の官公署大会社の数も増加一方にて、其の貝(貝冠+貝+貝負)御引立に応する能 はざる盛況に至り、従業員社員の激増は勿論、工場の拡張、設備の充実駭目に値へする ものあり、昨年より群馬県の高林に大分工場を設け、将来の規模東京工場以上とするの 予定と聞く、最近某大会社の支援に依りて一躍一百四十万円の株式会社となり、工場の 所在地も今日の東京高林に止まらす。今日最高経営方針として、氏の胸中深く秘められ 居る場所もニ三に止まらさるやの聞き込みあり、誠に同慶とすべきものなり。

[次へ進んで下さい]