鹿友会誌(抄)第四十四冊 特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」 |
△淺利佐助氏 淺利翁伝 人は棺を掩ふて初めて定まると云ひ、又人は一代名は末代などゝ死の永生を説 く。生きてゐる人に対しては親疎好悪の感情がはたらくし立場の相違によっても見かた が夫々異る。今筆者に対して鹿友会の編輯部が、鹿角出身にして鹿角に居たまんま成功 した人の一人として、先々代故淺利佐助翁の記事をものすべき旨求められた。此機会に 於て記者の見聞に映る同翁の片鱗を記して見たいと思ふ。 大正五六年二十歳の頃から自分は毎年りんご視察に青森県に出かけ途中蔵館の仙遊館 に泊ってゐる。当時宿の主人ともよく話合ふのであったが、花輪にとても感心な偉い方 がある。昔から当家を宿にされてゐるが、醤油屋の淺利佐助さんであるとのことであっ た、当時を逆算して見れば翁にとっては晩年のことでありながら、尚穫(金偏の穫)钁 (カクカク)として壮者をしのぐ元気で東奔西走席あたゝまることなく活動を続けられ るそのことを推賞敬服してのことであったらうと考へる。 翁は弘化元年花輪町に孤々の声をあげ、大正九年七月旅行の途次蔵館の仙遊館に病ひ を発っし、僅か数日臥床静養の上館を捐てる迄の七十七年の間、たゞたゞ事業の発展と、 その成功を祈る精進努力の連続であったやうに思はれ、今更ら崇高なる心事には敬服と 感激を禁じ得ない。 翁は幼名を重次郎と呼び先代佐助氏の長子として生れ、家業のイサバヤを業としたが、 明治維新後文化浸潤の趨勢を洞察した慧敏なる翁の観察は醤油に対する着眼となり、 初め盛岡の井屋の醤油を仕入れて町内及び当時お銅山と称した、尾去沢鉱山等に供給販 売し、明治五年二十九歳の時意を決っして醤油醸造を創始し、五十石を仕込んだのであ ったが、その当時千葉県銚子町ヒゲタ醤油の工場より、大久保重助なる杜氏を招聘して、 技術の習熟につとめたる如き、その先見の明と烱眼には驚くの外はない。しかし明治十 四年頃の経済転換恐慌時代には資に苦しみ、販路杜絶し窮乏のどん底に陥り、爾来十数 年間自ら天秤棒を担って行商をなす程、血と汗の奮闘をつゞけ、文字通り七転八倒、苦 難荊棘の道を乗り越え明治二十七八年日清戦争の頃やうやう努力の効果発現、醸造する 醤油の声価が高まると共に次第に販路が拡張せられ、明治四十四年、入り大醤油の商標 を登録し、入り大、福寿、白滝、青柳、黒滝等の名をもって県内は勿論青森県山形県岩 手県更に北海道まで販売させれ、大正三年蒸気機関を設備し、東北屈指の大工場たるの 地位を占むるに至った。 翁の事業が順調に発展する為にはいろいろ之が経営上の要素が見出されることである が、第一原料の購入から販路の拡張の為には翁自ら第一線に進出して之に当り、先進地 のあらゆる長所を採って自らの事業発展向上に資し、別に食糧貨荒物小間物洋品等の店 を兼営し、商品の仕入れは原則として自家製品たる醤油と今日の所謂リンク制を採用し た結果、宣伝広告による販売よりも加速度的に之を拡張し、且つ有利確実の取引を為し 得たること。 第二は事業発展の為め人的要素の充足につとめ数多き孫娘に対し何れも養子を迎へて 内外の業務を担任せしめ、使傭人の如きも全く家族同様の待遇を与へ、ために親、子、 孫と云ふ風に連綿継続今日に及んでゐる。 第三、翁の事業経営はあく迄も積極的であり、進歩的であったことは、その工場設備 の改造、増築のそれに見ることが出来やう、郷人称して淺利の普請と呼び年中、大工の 斧の音、槌の響の絶えることなく、又翁も亦フシンの音を聞くことが自分の健康法でも あると身辺の人によく語ってゐたと云ふ。事業と偕に生きる翁の独自の心境が窺はれる ではなからうか。 |