鹿友会誌(抄)第四十四冊 特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」 |
△山金彌氏 古河銅山王国の元勲としての金彌氏 明治初年時代の実業家として有名なりし、小野組の瓦解と共に、古河市兵衛氏は独立 を企画し専ら絹糸業に従事せり、偶々鉱山事業に興味を有するに至り、新潟県草倉銅山 を入手稼行を始めたり、是れ古河の鉱山に関係する第一歩なり、然れども鉱山に対して は古河も素人なり、指導者を待望して居た、其の経営は妥当なりや否や、其の鉱山は有 望なりや否や、識別判定を乞はんとするも、其の人なく事業停滞状況なりしが、東北に 素晴しい山相家山氏をりと聞き、三顧の礼を以て父君庄藏氏を聘し、草倉鉱山開発の 件を一任せらる仍而父君は精査の結果、将来有望を認め旧輩下の坑夫等百五十余名を、 尾去沢鉱山より連行し稼行し、古河の期待に副へられたり、氏後に其の鉱山長となり、 予期移譲の巨利を挙たりと聞く。 古河は更らに明治十二年、父君庄藏氏の調査の下に、栃木県足尾銅山を買収し、之 れが開発に当る。此の足尾の開発は主として、山家の分家七三郎氏の担任となり、探 鉱に従事せるもの悉く予期を裏切り、遂に廃山又は休山の議を決せること数次、古河の 運営資金涸渇し、草倉銅山の利益は勿論、全財産を投ずるも焼石に水、高利の資金さい 投じて尚ほ足らず古河も万斛の憾を呑んで、廃山決行を宣した斯くては古河のみならず、 山相家山家の家名に関する問題として、切に廃山思ひ止まりを陳述せると、古河の資 力既に尽き、所謂名折れ箭尽き継続の力なきを告げらる、依て山家一族郎党全報酬を 辞退して、稼行資金は最少限度に止め探鉱継続六ケ月延長を迫りたるものなり、古河も 無い袖を振りつつ山一族の熱誠に感激して、廃山を見合はすに至る。 山一家の此の廃山延期主張は、実に闇中模索の自分ながら心許ない主張にはあらず して、山家の家伝学に基くものにして、即ち足尾本坑口の探鉱道中激しき湧出の水あ り、是れぞ必ず近く良鉱脈の存在するを暗示するものなればなり、果して数ケ月の後、 足尾殷盛の礎因たる横間歩の大鉱脈の胴腹に突当てたり、其の脈中実に十有六尺品位% 十七八世紀に稀なる黄銅鉱脈を実現せしめたるものなり、当時明治十六年なり。 斯くして足尾は所謂大直りとなった、第一銀行始めとして資金は怒涛の如くに押寄せ、 遂に古河をして銅山王の名をなさしめたり。 明治廿六年父君庄藏氏没後、氏は家督相続し、古河家の元勲として九鼎大呂の重きを なし、全国的に古河銅山王国の為めに、諸鉱山の開発に専念し、氏の古河家に推奨買山 せしめたる鉱山にして、曾て損失を古河家に与へたるものなしと称せらる、古河の今日 も以上の受難時代を克服せるに依る、古河翁常に人間の成功は運、根、鈍の三つに帰す と唱せるが、克難の跡を顧みて実に最もなる自負の信念と思はる。 附記 氏の血縁にて田郡より立身して、南部藩の奉行となりたる奈良氏は、京都御所御造営 に際し、銅五万斤を献上せることあり、明治天皇東北御巡幸の砌り、此の事を聞召され、 従五位を進贈せられたり。 氏の末弟は多喜彌氏にして芝区田村町亀山商店支配人、曾て古河商事会計課長たり、 氏の令息は仙台市にあり、インキ、万年筆の大量生産会社長秀次郎氏なり。 |