△山金彌氏
古河銅山王国元勲たる
故山金彌氏(尾去沢田郡出身)
日清戦争前後、鹿角出身の成功者として讃へられ、其の名声を独占せる者は、実に
山金彌氏であったらう、其の容貌風姿の堂々たる、郷里田郡に展墓に帰省する時などは、
一山の人々瞠目したるものであった。
故山金彌氏(鉱山家)
氏は安政二年鹿角郡尾去沢村字田郡に生る、代々南部藩士として同藩の鉱山奉行たる
家柄に生れたるものなり、旧南部藩の稼行せる諸鉱山は、山家の調査ならざるなしと
いふのも過言にあらざる如し、一二の例を挙げて見ると、尾去沢鉱山、小坂鉱山、院内
鉱山、小真木鉱山、阿仁鉱山、水沢鉱山、是れである。抑も我が国に於いては、戦国時
代兵馬倥偬の時と雖も、強兵の為の富国の策は忘れられなかった、一ニの例を拾ふて見
れば、島津藩、武田藩、佐竹藩等は今日尚ほ其の遺跡を残してゐる、日立鉱山の佐竹義
宜の開発などは最も大なるものであると思ふ。南部藩の藩是も又鉱山開発であった、
山家は実に此の重要産業の方面を、藩の甚大の期待を負ふて担当したのである。
然り而して山家は、単なる南部藩の為めにのみ貢献したではない、当時諸藩の鉱山
開発熱により、辞を卑うし礼を重くして、鉱山の調査を乞ふもの甚だ多く、山相家の重
鎮として、鉱山相談門前市をなすの有様にて、其の打診によりて開発せられたるもの数
十山と称せらる。
氏は山家十三代の祖、庄藏氏の長男にして幼児より武道を修め、其の家業たる鉱山
業を専攻し、探鉱、採鉱、選鉱、製錬の真髄を体得せられたりといふ。維新廃藩後の氏
の先考は、氏を伴ふて県内諸鉱山開発稼行に従事せられたり。
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