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鹿友会誌(抄) 「第四十三冊」 |
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△鹿角苹果(リンゴ)の始祖 佐藤靜子 =佐藤要之助氏(佐藤良太郎君父君)= 明治九年県庁より柿、梨と共に苹の苗木を配布せられたが、何れも枯死し、単に苹果のみ 活着した。然し其の結実は酸味多く到底食するに堪へなかった、次で明治十七年盛岡に遊学中 なる花輪の佐藤要之助氏は、其の帰省の際、苹苗木四百本を齎し来たり、之れを栽培したるは、 実に鹿角郡内の苹の濫觴であった。然れども当時未だ苹果の何たるを知らず、何れも其の 軽挙を嗤はざるものはなかりしといふ。 要之助氏は人々の嗤笑裡に数年を送り、遂に苹果累々結実するに至るや、町民何れも驚異 の眼を以て之を迎ひ、相率ひて其の農園を訪ひ、其の成功を祝したりと伝へらる。 斯くの如くして氏は、鹿角苹果の始祖とはなったが、種類の撰択等に何等の研究を払はざりしを 以て、今日の言葉で所謂赤字経営に帰した、然るに柳玉の如き優等種約百本を残したのは、 実に鹿角苹果の今日あらしめたる所以となったものといはれて居る。米作に次いで鹿角の産業の主要 の位置を占むる、今日の苹果の始祖たる佐藤要之助氏に、鹿角林檎販売組合の感謝の挙は、 如何に具体化されて居るや、聞釜欲しい。 (附記) 県外移出は、当時学生たりし佐藤良太郎君の神田三久商店に交渉せるを又始めとすと伝へらる (大正三年秋田魁新聞記事抜粋)。 |