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鹿友会誌(抄) 「第四十三冊」 |
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△記念資料(其の一) 曩に発表せる皇紀二千六百年記念アルバム資料として集めたるものなるも、該資料の 集蒐甚だ思はしからず、僅かに集まれる二資料を本誌に掲げて他日の為に供せんとせる ものなり。 ○鹿角選出第一期秋田県会議員湯瀬鐵太郎氏伝 湯瀬氏は青年の頃、盛岡にて遊学し、那珂梧樓の塾(東京高師教授那珂通世氏の父)に 入門し漢学を修め、帰郷の後は専ら実業に手を染め、先づ十和田の欅を伐採して、盛岡 より水車専門の大工を呼寄せて、水車場を新設し、精米業を営み、又時代の先端を切て 養豚を試み、更らに初めて、郵便局事務を始め、傍ら旅籠屋をも副業として小坂鉱山 雇入れの外国技師は屡々投宿せり。 町の資産家石川儀平(祐助氏の父)等と相謀り機業場を創設して良家の娘達を集めて、 機を織らせ却々評判を博したり。 職工数名を連れて、一家秋田市に移住し、職工は秋田機業場の練習生となり。 当時秋田は、八丈、畝織全盛時代にて、機業場は、県令石田栄吉氏の部下清岡屬 (秋田中学第一期生清岡等の父)の監督にて、織女等の筬の音は往来に響き渡り、賑かに 聞へたり。 鐵太郎氏は、文徴明や、蘇東披等の法帳に依て、日夜習字を励み永字八法や、掛腕直筆 をよく口にせり、又西室藤長、江幡膽園等と(魁新報の創立者)詩会をも催したり。 又蚕業の盛なる雄勝郡其の他の蚕業組合取締もしたることあり。 邸内に多く林檎樹を植え付けて、実る秋は美観なりき、大阪に出懸け、人造肥料を仕入れ、 県内に肥料を配給し、又東京赤坂溜池の興農園と連絡して、農具及種子を中継せり。 面白い事は、玩具的溶鉱炉を造り、各地の鉱石を集め、書物と首引にて分析の研究に従事 したるも成功せず。 県会議員の仲間は、議長の成田直衛、副議長の畠山雄三、論客の荒谷桂吉、日景辨吉、 横山勇喜(横山樹成氏の父)、麓長治、目黒貞治、武石敬治、武藤三治等にて、常置委員 となりしことあり、其の当時速記者は安藤和風なりき。 後議員の株を、勝又平太郎氏に譲り、一切の事業より手を引き、悠々自適病を得て大正七年 五月十六日死去、享年七十三。 附記 南鹿よりの第一期選出県議は根本五郎氏なるも、御遺族よりの御寄稿なくして、記するに 資料なし、止むなく割愛せり。 |