鹿友会誌(抄) 「第四十一冊」 |
△筆者より「小坂鉱山・尾去澤鉱山」 ○尾去澤鉱山 尾去澤鉱山は、その発見を和銅年間と称せられてゐるが、慶長の頃、南部十左衛門、永久澤に金鉱を 発見し、長尾十左衛門、元山・田郡・赤澤に銅鉱を発見して、繁栄を極めたとある。 裕清私記には、慶長七年春より掘られた旨記されてゐるが、最初偶然の機会から砂金鉱であったと 伝へられて、それから約八十年位の頃、素晴らしい鉱脈が発見されたので、藩公が喜び勇み、下賎どもを 励ます為に鉱夫や附近の百姓達も集め、大直利と染め抜いた手拭と酒肴を饗された時、砂金精選の 身ぶりを真似て乱舞したのが、抑々金山踊の初りであると云ふ。爾来連綿、三百年の御手山として稼行を続け、 明治二十二年岩崎家の所有となり五十年、今日に及ぶ。 鉱山沿革斯の如古く、従って坑道は蜂巣状を為し、通洞を起点として上に五坑道(百尺毎に)、下に四坑道、 すべて十層を為し、その主要坑道総延長は六十里に及ぶと云ふから、驚くの外はない。 輓近銅鉱業の興隆につれて、浮遊選鉱法行はれ、従って浮遊廃滓を貯溜するためのダムが築造されなければ ならない。これを扞止堤と称し、決潰した中澤ダムも正しくは中澤扞止堤と称するものである。目下新に赤澤 に築堤中であり、これが完成の暁に於て、初めて作業が完全に復旧することにならう。 鉱山長明石孝因氏は扇田町出身、大中一期卒業の工学士、久しく佐渡金山に勤務して、尾去澤に転じ、更に 北海道手稲金山の新規稼行の基幹を完成し、たまたま変災に遭遇して、再度尾去澤に赴任、寝食を忘れて 復旧復興の工事を画策督励し、一面生産増加を図りつゝあり、副山長麓三郎氏は岩手県一ノ関出身の法学士、 謹厳温厚の君子人、深く禅学の深奥を体得されてゐると云ふ。蓋し女房役としては、最適であらう。 |