鹿友会誌を紐とく 第四十一冊(昭和13.12) |
△巻頭言「鹿友会精神 川村秀文」(別掲) △五十周年の回顧録「昔語り 大里武八郎」(別掲) △鹿友会五十周年記念大会(別掲) △五十周年記念大会思ひ出の記事「その頃の鹿友会と此の頃の鹿友会 月居忠悌」(別掲) △〃「鹿友会思ひ出まゝ(大正から昭和まで) 佐藤雄也」(別掲) △〃「会誌から拾った断片 奈良野人」(別掲) △〃「その頃の思ひ出 奈良正路」(別掲) △〃「尚義舘時代の思出 奈良正造」(別掲) △会員よりの希望「希望一、二 中島織之助」 (一)会合には万難を排して出席せられんことを望む。 (二)奨学金制度は、資金制度より基金制度が望ましい。 基金制度反対論者は、 @大金を安心して保管出来ない。 ※信託会社が発達している。 A幹事は学生なので、大金の取扱は無理。 ※幹事とは切り離し、専門の委員を置くべき。 (三)相談部の新設 △〃「育英事業の延長に就いて 川村薫」 去る六月十三日(昭和十三年)在京花輪会が上野梅川亭であり、花輪囃子でにぎわう。 …… 鹿友会奨学資金充実の為、東京、秋田、大舘等に育英舘式の宿舎建設を望む。現在下 宿料は東京三十円、秋田二十三円、大舘に十円位であろう。育英資金として借りなけれ ばならないのは授業料でなく、早く言えば下宿料を貸すことになろう。 もし東京で二十円位の下宿料で済むならば、まだまだ上京して勉学を志す人は多かろ う。東京に三千円位の育英会舘を建てて、二十人位の学生を収容するとしたら、一人に 対して七、八円の貸付をしたことになる。二十人とすれば一千円以上の父兄負担を減ず ることになる。 秋田市、大舘市の二ケ所まで及ぼすことも……。 △尾去澤通信 宮城佐治郎 ダム決壊の後、尾去沢は旧市街地を捨てて新たに軽井沢に市街地を建設するところで ある。山神社、役場、郵便局、鉱山倶楽部、病院、昭和会舘も新築された。 △花輪便り 川村薫 今年は戊辰戦役七十年の記念に当る長年寺墓地の入口に、ならべられている銃隊墓は、 草むらに埋まりがちな ので、田中徳次郎氏が○にて基礎をかため、木柵をめぐらして、主君の為に尽忠の至誠 を致した人方の霊を慰められた。 八月三日、日本一の打楽研究者であり権威者である小森宗太郎氏が、花輪の大太鼓と お祭り囃子を研究に、橋本国彦、共益社長の白井保夫の二氏を携へて来町、女学校の講堂 で偉大なる太鼓芸術の真髄を実験され、花輪囃子を聞かれたりした。橋本先生のピアノ も、も少し多くの人に聞かせ度いものだった。未発表の荒城の月の変曲には、皆かたづ をのんで耳を傾けた。小森先生は五日程残って太鼓を研究し、小太鼓二ケ新調持参され たが、また後で十ケ注文された。花輪は近く太鼓の本場になるかも知れない。 △消息 中島織之助 鹿友会を「心のふるさと」とする一方法として、年一回位鹿友会主催で鹿角会を開催 しては。 鹿角人であれば老若男女集うのはいかがか。 △〃 川口楠蔵 今は亡き祖父以来の、本会へ初めて出席させていただいた(尚小生は姓は異なります けれど、大里文五郎の孫でございます)。 △〃 奈良靖規 近世鹿角郡の学統は、折衷学の様であった。近頃土に生えた教学、即ち「郷学」は後 を絶っている。 △〃 秋田 中村次郎 十和田・田沢湖間の自動車道を造りたいと常に念願、杉村楚大冠氏を八幡平に招き、落 馬を幸ひ、記念碑なども建てました。十和田を遊楽の地のみとせず、尊い精神の道場と 致したく、土台石を据えましたが力足りません。 (後記) 郷土の方言こそは、特に郷里を離れている人々は郷愁をそゝり、故郷懐かしさの念を 深めると共に、慰めであり力ともなり、慈母の愛にも比すべき温か味を感ずる。 △在京郷土会の紹介「花輪会」 昨年花輪囃子連中上京を機して、上野梅川亭に花輪会を開いた。二百数十名 ※会合場所 大里文祐方 世話係:浅利佐要吉・内山せつ子・大里文祐・木村徳三・佐藤賢治・関治・武村知雄・中島 はる子・奈良利一 △貸費生 総数四十一名 現在学生四名・既卒者三十四名・死亡者三名 △会員名簿(昭和十三年十月現在)賛助員十八名、 正員、東京附近百六十二名・地方百五十五名・郷里百十二名 |