鹿友会誌(抄) 「第四十一冊」 |
△筆者より「小坂鉱山・尾去澤鉱山」 ○尾去澤鉱山 昭和十一年十一月二十日は、尾去澤鉱山にとって永遠に忘るべからざる変災の記念日であり、人類最高の 智嚢を絞った建設が、自然なる猛威の前には余りにも弱少であったことの事実をマザマザと見せしめ られたことであった。或は尾去澤鉱山もこれで終るではないか、などとの流言も洩されてあったが、 流石は三菱の経営である。惨禍泥土の中から、先づ復旧の鍬を打ち下して既に二年、中澤、笹小屋、 瓜畑、春木澤、軽井澤、新堀、新山、蟹澤から西道口の悪水川筋は、全く面目を一新し、新生復旧の 姿に輝いて居る。 先づ幅員三間の新道が西道口を起点とし、モダンなる彌榮橋を渡って、北側の山に沿って緩勾配 にて西進、旧牛舎のあった所から西北に山に進んで完全に住宅地化せしめ、さながら信州ならぬ 軽井澤高原には、文化の彩りも濃き家が建ち並び、道路には坊主山スキー場から、更に小学校旧校舎敷地 を横断しつゝ、中澤を横ぎり、病院裏を割って、事務所前迄自動車が行くことになると云ふ大計画が七分 完成を見つゝある。山を割き土を削り、更にこれを運んで笹小屋から春木澤辺の一帯は、宏壮なグラウンド としての大体は形体を為し、社宅、住宅、鉱山協和会館等は皆、新市街ともいふべき軽井澤方面に建設 された。 復興工事としては、事務所辺の自動車道を開鑿し、鉱山倶楽部、鉱山病院、郵便局の移転を終れば、 完了を見るのだと云ふ。鉱滓泥に埋没した当時の惨状を知らない人の目には、恐らく摩耶六甲の山沿 に見る住宅地か、スバラシイドライヴエイとしか見られないであらう。しかし、赤澤出口から瓜畑辺 段々に築造された扞止堤と沈殿池のコンクリート工事、それは三百七十有余の生霊を犠牲とした ダム決潰に対する償ひとしては、余りに大きい経費の支出であったことを思はせずには措かないものである。 総べて工事の常識に於ては、予算を基準として設計せられ、着工するのであるが、尾去澤鉱山の復興に 於てのみは、予算の限度がない必要な丈の工事は、如何に高価であり犠牲を払っても、遂行せしめ なければならない。一度完成した石垣なども、何十間となく取り毀って土砂をとったりしてゐる所もある。 尾去澤鉱山を語るためには、先づ以上程度の復興工事の内容を頭に入れて頂かなければならないで あらう。 |