鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△筆者より「小坂鉱山・尾去澤鉱山」
○小坂鉱山
 而して小坂鉱山の再興は、元山の鉱石塊を外廓より掘り出したる、所謂掘り割式採鉱法であって、 此の方法も亦、我が小坂をもって嚆矢とされてゐる。しかし元山の鉱石埋蔵量は無限の宝庫とは 云ひ難く、減産の止むなきに至った頃、北秋田郡花岡鉱山が小林鉱業の手から、小坂に譲渡せられ、 探鉱の結果、花岡の市街家屋の下も、田の下も、全部良質の銅鉱であることが発見せられ、今日依然 大小坂鉱山の隆昌を見つゝある。
 
 殊に小坂鉱山にとって恵まれたことは、大湯川一帯僅か五里足らずの所に、六ケ所の発電所を 建設し、鉱業動力として各般に供用し得る所であって、小坂今日の発展を思へば、内外天然資源の 恵沢に基くことに外ならぬ。しかし南に尾去澤、北に小坂の大鉱山を恵まれゐる鹿角、尚その外に 八幡平、十和田湖の風景、大湯、湯瀬、蒸の湯等の温泉までも与へられたゐる。鹿角は何と云ふ幸福な ことであらう。これらの鉱山は一面、農産その他あらゆる物資の消費地であり、需用吸収地であって、 これによって郡内農民が経済的に、共存的恵沢に浴してゐる点の如何に大きいことであらうかは、 想像に余りある。
 
 鉱山職員労働者をもって組織する購買組合の如き、組合員三千人を擁し、購買品販売高、実に一ケ年 百余万円の巨額に上り、曾つては素人の商法と危ぶまれた事業ではあったが、町の商人を完全に 征服し了った姿にあり、組合の力、団結の力位偉大なものはないことを明かに証明してゐるのである。
 小坂には尚誇るべき公認グラウンドが建設され、陸上競技方面に於ても、東北の覇者獲得に努力してゐる。 目下応召中の地所係長田中隆二郎氏が残された大なる足跡の一つであらう。
 
 鉱山事務所長の白石慶太郎氏は四国出身、長幹巨人をもって知られ、目下軍需資源増産の為に、東奔西走、 席温るなき程劇務の裡にある。庶務係長の赤坂理吉氏は謹直温容の君子人、田中地所係長応召の為め、 その方も代理されてゐる。
 小坂鉱山が藤田組の経営に入ってから五十余年、その間所長を代へること十代、初代は仙石貢氏とあるから、 後の鉄道大臣、二代目は久原房之助氏、四代目は田中隆三氏と、鉱山事務所長から大臣、枢密顧問を 出してゐる。之を見ても小阪鉱山は、単なる一地方の大鉱山でないことが首肯出来るであらう。

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