鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△筆者より「小坂鉱山・尾去澤鉱山」
○小坂鉱山
 歴史程、明確を保し難いものはない。そは人間の記憶に多くの誤りが生じ易く、見る立場によって、 観察の相違もあり、従って記録上に差等を生ずる。歴史に外史があり、内史があり、更に秘史 の存する所以であらう。
 小坂鉱山の発見の如き明治直前であっても、既に誰人の発見創業にかゝるかの如きは、余りよく 知られて居ない。記者は此の機会に、同鉱山創始の由来をこゝに先づ掲げることにする。
 
 文久元年、今より七十八年前、小坂町岩澤の農民小林與作なる人、鉛鉱を探るべく津軽の坑夫、 岸藤太郎なる人を伴ひ、杉原山旧鉱に赴かんとした途中、一つの岩石を発見、帰宅して焼きたるに 純銀を得、これを秤にかけた所、原料の百分の六を得たので、驚喜して其処に新坑を開き、採鉱の 業を始めたのが、即ち小坂鉱山であると、鹿角誌に記されてゐる。
 
 慶応二年の頃、藩主南部家の手に移り、維新後一時廃絶し、明治三年政府、之を再興し、十年 再び南部氏の手に経営せられしも、物価工賃等騰貴の為、経営意の如くならず、十三年六月政府に 返還、明治十七年九月、大阪藤田組の手に経営せられたのであるが、明治三十年代に至り、 銀鉱欠乏を告げ、危く廃山に帰せんとせしも、品位低き銅鉱の製煉につき、当時の所長久原房之助氏、 製煉課長武田恭作氏以下米澤萬陸氏等々の苦心研究の結果、独特の自熔製煉方法を完成し、明治 卅五年大鉱炉と大煙突を建設し、その規模に於て東洋一の名を得るに至ったことは、知る如くである。
 
 尚鹿角誌の編者内藤調一翁が明治三十八年述懐を漏して曰く、
 「回顧すれば、予等壮年の時、儕輩と相共に養蚕の飼料に供せんとて、採桑の為赴きしは、小坂の 尾樽部山なりき、当時鬱蒼たる森林にして、狐兎の巣窟に過ぎず、而して今は即ち我県に於て、 秋田市に亜ぐの一都会と変せり、其間僅に四十年、左右噫文化に進むの如、斯速かなるもの世亦 多く其類あらざるべし。由此観之此地方、従来伝承する所の芦田原町、及白根金山千軒、或は 西道金山千軒と云ふもの亦、必ず其処誕に非るを知る」云々

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