鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△筆者より「小坂鉱山・尾去澤鉱山」   川村薫
 「小坂・尾去澤鉱山の記事執筆方仰せつかりましたが、時局関係で余り内容に亘っては 記されないそうで、止むを得ず書き寄せになりました」
 
 金のベゴコに錦の手綱
  おらも曳きたい曳かせたい
 
と、金山踊りカラメ節の唄を伝へた如く、鹿角は古来からの鉱山國である。奈翁が一も金、 二も金、三も金と云った如く、金が国家存亡の岐路を為すことの事実を、目のあたり見せられ てゐる我が国の非常時局に際し、古来幾百年、西も東も金の山と讃へ、金で生き、そして尚 鉱山で存続するかに見ゆる鹿角郡は、鉱山の過去を偲び、現在を知ることは又、徒爾ならぬ ことであり、記年号編輯者も定めしそれ故に、此の課題を私に与へられたものであらう。
 
 由来鉱山位、栄枯盛衰の甚だしいものはない。山師の名の依って来る所以でもあるが、 一つの鉱山が隆々稼行の蔭には、幾十百の犠牲が秘められてゐるを忘るべきでない。今日でこそ、 地質学を初め、最高煉金の術が完成し、如何なる貧鉱も、国策の大坩堝の中に投じて、 余す所ないのであるが、昔の鉱業家は所謂山相に起点を置き、経験を基礎として、山から山へと 跋歩をつゞけて、鉱山を発見した苦心辛酸は、恐らく筆紙に尽し難きものであらう。
 
 明治以前藩政時代、鹿角で稼行した鉱山は恐らく十余ケ所に及んだことは、藩の記録に 残されて居り、これによって見れば尾去澤、槇山、白根、十灣田、オヒノ倉(不老倉)等を 筆頭にして、四角・細地を中心に五六ケ所の名が掲げられてゐる。当節大鉱山の技師採鉱課長 さん達でも、現在国策線上に乗って、非常時国家の為に軍需資源を為しつゝある鉱山は、 何れも古来発見された個所に過ぎない点に、驚嘆の辞をさゝげ推賞の声を放ってゐる。
 
 田舎なれども鹿角の国は
  西も東も金の山
 
 カラメ節の本唄が示す如く、鹿角はカラメの本場として、今尚ほ南北に鉱煙を吐き出して 躍進を続けてゐる。今与へられた紙面に、鹿角を代表する尾去澤・小坂両鉱山の姿を粗述 して見る。

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