鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○鹿友会四人男
 私の東京に飛び出したのは、明治二十七年の十一月、日清戦争の最中で、その頃の大先輩は、 内藤虎次郎先生、川村竹治様、大里武八郎様などで、川口恒三様は居られませんでしたし、 青山様は軍艦に乗って、威海衛の夜襲に大活躍した居られたでせうし、故石川伍一様は、重要軍事 任務を帯びられ、大方今皇軍の将兵達が乾坤一擲の大活劇を演じて居る、北支の天地に暗躍して 居られたことであったでせう。
 
 遠足には内藤先生を初め、大先輩が大概一緒に行かれて、随分罪のない、いたづらをしたり、 されたり、また内藤先生などは、史跡の説明をして下さったりしたものですが、能く故阿部守己君 などが、内藤先生にお負さったりしたことがありました。
 
 或る年の春に、越ケ谷の桃見遠足をやった時、南千住まで行くと雨が降り出したので、遠足 中止説が起り、結局南千住で解散してしまったのですが、「いやおらァ行くべし」と頑張り出した のが、豪傑の阿部守己君で、私と故櫻田英吉君の二人は賛成する、これは吾々両人は守己君と 同宿してゐた関係上、強ひて反対する訳には行かなかった為めであったかも知れない。然るに、 今一人、此の無茶遠足に賛成したのは誰あらう、大里武八郎さんだったのです。
 
 処が南千住の町を出はづれる頃から、雨が本降りになった来た。何でも千住で茣蓙を買ったやうに 記憶するが、初っ鼻から雨を突いての遠足なのだから、随分乱暴な話であるが、併しなかなか愉快 であったと思ふ。越ケ谷の町の小さな茶屋に休んで、火をおこして貰ひ、ビショ濡れになった衣服を 乾かしながら、湯豆腐で熱燗をあふり、昼飯を喰べたことは、今だに忘れることの出来ない思ひ出 です。
 
 当時吾々のことを、
 「鹿友会の四人男」
と云はれたのでした。遠足の事についてはまだまだ色々話の種があると思ひますし、また例会の ゴロゴロ遊びのことなども、鹿友会の名物の一つだったと思ひますが、紙面の御邪魔になりますから 止めにします。
 終りに私達が、わが鹿友会の先輩方から被りた骨肉も、只ならざる温情と恩顧に対し、平素は不調法 ばかり致しをりますが、此の機会に於て、衷心より厚く感謝申上げ、一層御自愛御健康の程を 御祈りいたします。(昭和十三年六月十二日、京城龍山、鉄道博物舘に於て識す)

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