鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○鹿友会四人男   川村五峯
=懐つかしき遠足会の思ひ出、先輩方の温情を偲ぶ=
 
 この程国民新聞かに、俳人荻原井泉水氏の寄せられた同行二人と題する俳文は、頗る 面白く読まれたが、その第二回が「草鞋」といふので、
 「わらじをはいて歩くと、大地の体温とでもいふものを、直接に足裏をとほして感じられる、 そして大地の肌の感じは、それを味ひつけた者にとっては、忘れ難いものである、今の 靴や地下足袋では、此の感じを体験することが出来ない。云々」
と云ったやうなことがあったのですが、成る程全くそれに違ひないと私も思った。さう思ふと、 私の頭脳のなかにちらッと閃らめいたのは、今から三十年……否……四十年も昔の鹿友会の 遠足のことです。
 
 今ならハイキングと云ふところで、気のきいたスタイルをして、リュックサックでも脊負って、 郊外の相当距たった地点までは、汽車か電車に乗ってゆくところなんですが、昔の遠足は、 随分野慕なものでした。第一その時分、学生の制服制度の処もあったとしても、多くは木綿の 紺がすりの筒袖に、小倉袴姿で通学したものが多く、大学生など制服を着る人は至って少なかった 様に思ふ。だから遠足をするには、脚絆草鞋で袴の股立ちを高く取りて、握り飯を風呂敷に包んで、 いたこ脊負ひに斜に結ぶ。また袴を穿かないものは、木綿羽織を着ても、衣服の裾を高く端折って、 編み笠を冠って、太いステッキを振りまはしながら、やって行くと云ったやうな有様で、凡そ 現代の学生達には想像もつかぬ奇怪千万な風俗だったのです。
 
 遠足については、いろいろ懐つかしい思ひ出があります。其の頃は、今日のやうな娯楽が 無かった時代なので、学生の集団的楽しみとしては、先づ遠足であった。他の団体でもやった ことでせうが、鹿友会の遠足は、確に学生界の名物の一つであったと思ひます。そして是れが 先輩と後輩との親密を図る機会ともなり、知識見聞を広め、名所旧跡の探勝ともなり、その上 健康増進の効果大なることは云ふまでもなく、当時は、今日のやうに郊外電車なんか殆ど無かった から、否でも応でも草鞋ばきで、大地を踏んで、五里や六里は歩かなければならなかったものですが、 今日余りに交通機関が発達したため、都市内でさへ乗物を利用し過ぎる始末、だんだん青年の 体力が低下し、厚生省で学生の徒歩通学励行を叫ばれるやうなことになったのですから、妙な ものですね。

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