鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○入会当時の思ひ出   黒澤隆朝
 「うちから金を送らないで勉強が出来るなら、東京へ出てもよい。その代り何でも お前の好きな事をやるがいゝ」。
 その頃窮迫時代に喘いでゐた父は、かうした慈悲の餞別をしてくれました。
 
 妹は秋田の師範に居たし、弟は三本木の農学校に行くといふし、それまで幾分か教員 をしながら小遣を送って居た私が「この儘で居られない」といふ意気に駆られて、親も 兄弟もすべての条件を無にして、只管突撃の一路を辿ったのでした。
 其の頃曙の小学校に勤めてゐましたが、大正七年の一月、秋田市に一ケ月の講習会に出、 先輩小野寺勝藏氏の激励に覚悟をかため、師範の音楽の先生について、一ケ月間受験準備 をしたのです。四五倍の受験者の中から運よく入学が許され、いよいよ曙を去る時、 有名な剣客根本五郎翁から「黒澤ッ馬鹿ッ、おまへ楽隊なるに東京さエグテナ?」と、 一喝を食ひました。
 
 東京へ出てから、一学期位は暮らせるだけの貯へもありましたが、二学期初頃からは、 そろそろ破綻を告げて参りました。その内、小野寺氏等の斡旋によって、県の育英資金が 借りられる様になり、それから川村十二郎氏等の御奔走によって、鹿友会の名に於いて 川村さんの御厄介になる事になりました。こんな事で私は鹿友会の会員たることが許され たのでした。
 
 当時の鹿友会は、青山芳得氏が幹事長で、我々学生は鹿友会員になって、先輩諸名士と 膝を交へて一夕歓談できる様になった事を誇りとし、且つよろこんで出席したものでした。 先輩は何れも金一封を寄せられ、臨時予算で種々余興が出来た様でした。

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