鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○尚義舘時代の思出
 鹿友会と尚義舘とは、何んの関係もないのですが、亡くなられた内田守藏さんが何んかの 縁故で、当時西片町に住んで居った信一郎様と私の三人で、寄宿することになったのであります。
 本郷西片町の崖下に、今も尚義舘と云ふ古い表札のかゝった門構の平屋と、二階建ての 建物があります。狩野流の全盛に引換へて、凋落の途を辿って来た澁川流の道場は、東京で これが唯だ一つ残されたものであります。
 
 舘主は澁川流の正統を継いだ三宅三八と云ふ人で、丁度前首相林大将を思はせるやうな風貌で、 毎日午後の稽古時間には、塾生と外来の門人が出揃ふ頃になると、奥の居間から道場に出て 来られ、左側の上座に端座して、ヂット稽古を見て居らるゝ様子は、迚も今の人に見られない 厳粛さがあったものでした。
 
 塾生は各県の人々の寄り合ひで、大学から中学まで夫々学校に通って居りました。
 稽古は所謂武術練磨ではなく、体育養成を出ない程度の型の練習でありました。指ケ谷町の お宅とは、二丁位より距って居ないので、毎日往復してゐたものでした。殊に佐藤良太郎様を 始め、二三人の人々も稽古に通はれたりしたので、他の塾生とも懇意になり、それからそれと 鹿角人で此処に入塾する人が殖えて来たのでありました。
 小田島徳藏、小田島仁郎、内田榮司、阿部淳、作山榮吉の諸氏も前後して乳塾され、それから の二三年間は鹿角人の全盛時代を作った訳でありまして、鹿友会の支部の観を呈したので ありました。
 
 塾では「コンパ」をやったものでした。塾生が各自お国自慢の隠芸をやり、我党では内田守藏 さんの浪花節や詩吟や、小田島仁郎さんの「唐人の寝言」や湯瀬村コなどが非常な喝采を博した ものでありました。
 小田島信一郎さんは、何が御得意であったか一寸記憶しませんが、昔ながらの 謹厳さで、朝は早く起きて、何十杯かの冷水を浴びたり、学芸や新聞社の見学団に参加されたり、 若い頃から体育に精進されたことは、居間もなほ変りないと思ひます。
 小田島徳藏さんは牛込矢来下の故梶田半古の塾に通はれ、丹青の途に励まれたのも此頃で、 塾生は小田島画伯と尊称を奉り、小上清水の和子さんに親しんたものでありました。
 
 此の塾の門下生として光って居た人に、当時財界で鳴った三井銀行総理事早川千吉郎氏が ありました。氏は学生時代から三宅先生の薫陶を受けられ、一介の貧書生として、冬の日も 寒い道場の片隅に、火鉢もなし起臥せられて大学に通ったものだそうです。
 塾の維持費は、同氏が支出せられて居ったと聞いて居ました。師弟の情誼誠に麗はしいものだと、 子供心にも感じたものでありました。
 毎年お正月の稽古始には、必ず臨席されて沢山の御菓子、果物、寿司などを持参されて、塾生を 喜ばされたものでありました。
 
 終に臨み、思出の竭きぬ守藏さん、仁郎さん、榮司さんの御冥福を祈って擱筆します。

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