鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○尚義舘時代の思出   奈良正造
 幹事長から与へられた課題に何んとお答へしやうかと、実は平素思ひ出しもしなかった、 卅年以上も前の記憶を呼び起して見ました。
 何しろ日露戦争前のことで、此間に流れた時を考へると、私自身も年をとってゐるし、 たゞ昔なつかしいと思ふ淡い思出でに過ぎません。
 
 明治卅五年頃、当時小石川指ケ谷町二番地に、大先輩の大里武八郎様が未だ御独身の頃、 同氏を家長と仰いで、佐藤良太郎氏、大里周藏氏、大里平治氏、諏訪富多氏御兄弟、 田村又藏氏御兄弟、關貞治氏、石木田徳造氏など所謂鹿角の名家の息子さん達が、それこそ 一家団欒の形で夫々の学校に通って居られたものでありました。今の指ケ谷町の電車通の 小高い丘の上に、庭前に太い松の木が植はった二階建の家がそれでありました。
 
 その頃、子弟を遊学させるとなると、先づ第一に大里様に御願したいと考へたものらしい ので、さして広くもない此の家に置いて頂き度い、と懇願する人が相当に沢山あったと記憶 します。従って鹿友会の本部であると同時に、色々な縁故で泊る人、訪れる人が非常に 多かったやうに思ひました。

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