鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○その頃の思ひ出
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 石田、關両氏追悼会の経費が、当時売出したばかりの駿河台カフェーブラジルでやったので、 足を出し、僅かその五十円を川村さんのところへ頂戴に上ったら、事後承認がいけないといふので、 石川漣平さん、青山芳得さんも同席された前で、叱られたことがあった。あまりいい気持ちが しなかったといふ思ひ出が胸にこびりついてゐる。
 
 この当時は、今よりも物価が高かったと思ってゐる。ことに学生の困ったのは、貸間がないこと だった。六畳が間代だけで十五円、それも滅多にいいところがなく、私なども小田島信一郎 さんの東中野の卜居を強襲して御世話をいたゞいた程だった。
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 物価の騰貴と生活難との他面の摩擦は当然に、我が国に於けるストライキの発展時代を現出 していった。資本主義の上昇期から、矛盾の激化時代へ入ってゐたのである。
 だから、私共の学生時代は、軍教反対とか、いろいろな思想、政治的運動に学生が飛び込んだ 自由主義の最高期の表はれともいひうる頃であった。言論、集会、出版等の自由が今日からみると、 全く夢の如く寛大であった。
 この当時の学生はウツボツとして、マルクス主義の研究のルツボの中へとび込んだ。従来の科学の 体系が、この新しい体系の前に、極めて脆弱な姿を現はし始めたのである。
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 私共の法律思想もまた、形而上学的殿堂から、社会に実在する現実の立場から考究せねばならない 風潮の中におかれた。法の哲学もまた、新鮮な実践的方向へ円滑に発展して行ったのであった。 今日各大学で講義されてゐるものの内容には、この頃以来の影響を鋭くうけてゐるやうである。
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 昭和二年に学校を出た私は、折柄九州大学からの招きがあったのをも顧みず、少しばかり実践の 道へ深入りし、さのために、爾来、鹿友会と絶縁状態になってゐたが、近来再び法律学を専攻 するやうに環境を整理したので、会へも大いに接近したいと思ってゐる。然し、会から離れた間に、 私は今日第一線に立ってゐる著名な法律学者たちと知る機会を得たのであった。その頃を思ひ 出して、当時笈を負うた時代の希望とは、全然別のところに住んでゐる現在を見出し、十星霜の 変遷に転感慨にたえないものがある。

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