鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○その頃の思ひ出   奈良正路
 私達が鹿友会の幹事を御うけしたのは、昭和の一番創めである。その頃は、幹事が全部 在京学生の役目をされてゐたもののやうであった。大体、花輪、毛馬内、小坂、の三区から、 学生が幹事になり、郷里との連絡やら、新会員の獲得に努力することになってゐた。
 
 私達の幹事長は佐々木彦太郎さんで、同期の幹事は、亡くなられた佐々木彦一郎君、毛馬内 では大里芳郎、大里貞治君、小阪では酒井忠恕、高橋元君であった。
 会の仕事については、不狎で、いつも不十分な活動しかできなかったが、幹事は頗る 仲睦しく協力一致で事にあたったのであった。
 恰度、育英資金が欠乏した時だったので、未納貸費取立に狂奔させられ、先輩にたいしても 膝詰談判までしたものだったが、思へば恐縮にたえないことであった。
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 三年間の幹事生活中で主なる仕事は、(一)評議員会に於ける幹事の発言権及び表決権の確立、 (二)学生会費の低廉化、(三)石田八彌、關達三両氏追悼会及追悼号編纂の三つであったと思ふ。
 その当時は、会の空気が、老、中、壮、青といったグループにわかれるので、青年組の出席歩合 がいつも振はなかったのに鑑みて、会費を廉くしたり、入会率を高めたり、種々努力してみた ものだった。
 
 昭和三年だったと思ふが、毛馬内で開いた在郷鹿友会の如きは、両大里君等の努力が奏効して、 青年組の多い稀に盛大な大会がもたれ、豊口竹五郎さんや内田清太郎さんの御元気だった姿が いまも目に見えるやうである。
 学校でやった演説会の如きも、仲々盛大なものだったと思ってゐる。
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 佐々木さんの次には、石川六郎さんが幹事長を引受られ、私等は先輩幹事といふ名目で、 事務の引継や何やで、よく目黒のお宅で御馳走をいただいたり、手前勝手な議論の相手に なっていただいたりしたことを、懐しく思ひ出す。その頃「蒼氓」以来有名になった 石川達三さんも早稲田の学生で、我々の会に出てをられた。

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