鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○鹿友会思ひ出のまゝ − (大正から昭和まで) −    佐藤雄也
 初めて鹿友会に入会したのは、丁度私が早大に入學した年の春であった。当時盛んで あった秋田県人会の学生幹事をしてゐた関係で、毎年二月十一日開催の県人会大会準備の 際には、いつも私は寄附金掛を強ひられ、県出身の先輩川村先生を始め、田中、町田、榊田、 池田の諸先生を歴訪して、多額の寄附を仰いだものであった。幸ひに先輩の方々は、 何れも学生を良く理解され、趣旨さへ徹底すれば、何事も莞爾として快諾して呉れた ものであった。当時を回想して今更ら、ぞっとする程恐縮してゐる次第である。やはり 純情なりし学生当時の天地は、また格別であったからである。
 
 其後大正五年に至り、現顧問川村先生の幹事長のもとに、同学の豊口鼎三君と私とが 初めて鹿友会の幹事として会務の一端を担任する事となり、直接川村先生の御指導のもとに、 無我夢中で会務の処理に当ったものであった。爾来私が会に対して益々親しみを深めた 原因であった。
 殊に川村先生には、郷土後進者の誘導に意を注がれ、絶えず関心をはらはれし事は真に 感謝、感激に堪えない。
 
 次に会誌発行準備に付て、いまだに忘れ難い感激をもってゐる。
 当時私は、早大附近の鶴巻町に下宿生活をしてゐた時分であった。此の会誌編輯の仕事は、 経験の無い私にとっては、一番難問題であった。止むを得ず、初冬の頃、先輩の小田島徳藏様と 川村十二郎様とを訪ねて相談したところ、御両氏とも直ぐに快諾され、其日の夕方より毎夕、 遥々私の下宿までお出になり、親しく原稿整理の順序、方法を教へ、且つ自ら編輯に当られ、 毎夜深更に及ぶこと三日、お蔭を以て予定通り会誌発行準備を完了し得た事であった。
 鹿友会務に対する両氏の熱意実行力、後輩に対しては特に親切なる其態度には、全く敬服 の外なく、親しく両氏の温容に接した者の、等しく頷かるゝ事と思ふ。此の指導精神こそ、 我が鹿角スピリットとでも申しませうか、やはり先輩は皆、私どもには なくてはならぬ師であり、また兄である。
 今当時を回想して、一入の懐しさと感謝の念、禁じ得ないものがある。東西相隔たる 御両氏の御清福を切にお祈りする。以上は私が幹事時代の感想の一ツ、二ツである。

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