鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○尚義舘時代の思ひ出   小田島徳藏
 尚義舘時代、それは遠い日露戦争の少し前であるから記憶も薄らぎ、思出も至て朧げで あるが、小田島主幹からのお命令であるので、回想の糸をたぐって、次第もなく書き続ける 事にする。
 
 尚義舘は、本郷丸山福山町にあった柔道の塾であった。何故こう云ふ武ばった処に、 昔から運動の「う」の字もやった事のない私が居たかと云ふと、夫れは従兄弟の内田守藏君が 塾長然として茲に居たからで、多分信一郎君も居られた事がったかと思ふ。塾主が 亡くなってから奥様が十数人の塾生を統へてやって居た。水野と云ふ老人が始終、代惠古に 来たが、此人の警視庁奉職時代にゑらい強盗を召取った話や、岡部と云ふ高弟の人が、内へ 忍びこんだ盗人をやっつけた武勇談を喜んでよく聴いたものだ。
 
 此の時分鹿友会の本部が、渓一つ隔てた小石川久堅町にあって、大里武八郎さんを首領に、 鹿角の人達が大勢居たので、始終行き来をして居た。尚義舘に何かあると皆やって来た。 佐藤良太郎さんなどは、尚義舘の連中と相撲をとった事があったが、大変軽捷な人では あったけれども、何しろ此方は、其方の玄人と来て居るので、手もなく負かされた事があった。 一緒に鴻ノ台附近に遠足をしたり、相撲を見物したりした。こんな意味で、鹿友会沿革史の 一頁に尚義舘の名が出てゝもいゝであらう。
 
 相撲と云へば、当時大刀山が売出し時代で、学生間にも相撲熱が可成旺んであった。僕は 東方の「逆鉾」がひいきであったので、多分大刀に勝った時であったらう。祝勝の意味で、 高等学校向ふの梅園と云ふ菓子ホール(?)に行って、二三人で餅菓子一折を平げた事がある。 辛党に転向した今日では、考へても胸が酢ッぱくなる話だが。
 
 尚義舘には内田の外に今一人の大学生、本間六郎と云ふ人が居た、学生には珍らしく新聞の 相場欄を一番先きに見ると云ふ人であったから、其后実業界に出て相当に活躍された事であらう。 何かあって内田が怒り出すと、此の人は始終なだめ役であった。内田の直情径行ぶりは昔しからで、 舘生には恐れられて居た様であったが、此の人は親まれて居た。其の「熱」と其の「冷」との 対照が妙であった。
 
 私は其の時分、牛込弁天町にあった梶田半古画伯の塾に通って絵を習ってゐた。仝年輩の仲間に、 今の帝国美術会員の小林古徑や前田青邨が居た。私は間もなく脚気にかゝり、国に帰って絵の方も 其のまゝになった仕舞ったが、実を云へば、幸か不幸か最初から「小林」だの「前田」だのと云ふ 連中にぶっつかって、ひどく自分の天分にひけ目を感じ、筆をとる勇気を失ったからであった。 之れは今から考へても、やはりいゝ事だったと思って居る。

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