鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○私の幹事長時代の思ひ出   佐々木彦太郎
 其当時私は本業創立の際、現場では昼夜兼行、タマの鹿友会にも欠席勝であった。
 或る日、關達三氏は突然私に幹事長事務引継の為めに来訪されたので、私は仕事が 一段落附くまで、モー一ケ年丈け猶予を嘆願したが、聴き容せられなかった。大層困ったが、 幸に奈良正路君や亡き彦一郎がよく骨折って呉れたので、辛ふじて曠職の譏を免れる 事を得た。
 
 任期中尤も悲しかりし事は、鹿友会創立の大恩人石田男爵が亡くなられた事で、 又お芽出度い事は、川村様が満鉄総裁に就任された事であった。形ばかりの追悼・祝賀の 会を催した事を記憶して居る。
 
 奨学資金の基金は、全く青山芳得様の御努力の賜である。此御蔭で、幾多郷土の俊才が 青雲の志を得られた事は、洵に有難い事である。貸費事業も其初期には、資金潤沢で あった為めか、質の撰択に不十分の嫌ひがあった事は遺憾である。
 私は、先輩各位は玉の汗で郷土の有志を説き廻って集められた、貴い基金の回収を図りたいと 念願して、多少は集めたが、未だ郷土の未納金も大分ありましたので、方々御願して見た事も ありました。二三の方は、醵金して呉れました。又貸費生中には規則正しく返して、最後に 感謝状を送った人もあり、又中には相当の地位にありながら、猶ほ償還どころか、挨拶の 手紙をも出さぬものもあった。後で聞いて見たら、矢張其儘だ相だ。
 
 私の時代にも幹事が百方手を尽して、書面を出したり、又態々遠方迄出掛けて直接反省を 促して見たりしても駄目で、仕方なく保証人に相談して見たりしたが、徒労に了った。
 或る人はこれを聞いて憤慨して、最後には地方長官に事情を話して、警告して貰へと 云ふたが、隠忍して其儘して置いた。然して後も反省の態度を示さざるに於ては、或は 膺懲の挙に出でぬとも限らぬであらふ。若し之れが固定されなかったなら、二十年間に 此資金の恩沢に浴し得た英才は、大分あったらふと思へば、実に残念に堪へない。何とかして 早く償還の途を講じて貰ひたいと思ふ。
 
 私の任期中は、会の古参元老にして、苟も鹿友会に関する限り、知らぬ事無き月居大人の 援助に負ふ所甚大であった。此機会に同氏に深く感謝の意を表すると共に、今後共、会の 万年重鎮として指導と援助とを切望するものである。(了)

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