鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△思ひ出の記事
○その頃の鹿友会と此の頃の鹿友会   月居忠悌
一、その頃の鹿友会
 私の鹿友会初入会は、今より四十年の過去に遡る。今の顧問筆頭の川村先生の如きも、 金釦角帽の大学生で、颯爽と本郷通りを闊歩して居られた時である。幹事長は川村、大里 両氏交互といふ有様で、会の時は、花輪は花輪人ばかり、毛馬内は毛馬内人ばかりといふ 様に割拠して着座の傾向あった。今日の鹿友会には、此の傾向は全く絶無ともいふべく、 油然として各町村を超越した友情の融け合ひを見せて居るとは異なるものあった。
 
 会員は悉く学生、若くは学生の気分の抜けぬ若人のみだから、今日の会員と異なり、 青いと申すべくや、黄なりといふべくや、兎に角一色であった様に考へらるゝものあった。 苦学力行の不屈不撓の元気者も決して少なくなかったのは、今日の鹿友会と異なる 一つでもあったろう。
 今日では見られないのは、若様否な貴公子的学生としての、佐藤良太郎・田村定四郎 此等の学生姿である。何分年齢と学問と環境とに於いて大差ない連中の会であるから、 統一も取れ、会に対する愛着も深く、会を牛耳て行く幹事長などの労苦は、今と比較に ならぬ楽なものであったと思ふ。

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