鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△五十周年の回顧録
○昔語り
 鹿友会の中心となった場所の移り変わりは、ざっと斯んなものですが、其の間、芝、麻布の方面には、 石川様の御尊父様の御宅がありましたから、其の方面の会員のは、自然其の御宅に伺ひ、御薫陶を 受けた人も少くなかったのであります。何を申しても既に三十年以上の昔話で、其の頃と今とは、 社会情勢も全く異って居りますので、今の会員方から考へられたら、馬鹿馬鹿しい様でせう。
 私の居る頃は、本会も未だ廿歳前でしたから、兎に角学生本位で、皆が仲よく勉強して、お互に 側道にそれない様にしやうと心掛けて居た丈ですから、至って単純なものでした。例会の会場は、 多く上野辺で、大仏の前の韻松亭、摺鉢山下の三宜亭、東照宮側の見晴亭等はよく選ばれました。
 春秋の気候の好い時節には、遠足もよく致しました。大概徒歩で、握飯を携へ、近郊の名所旧跡などを 廻ったものです。
 
 創立以来の古い記録と会誌は、私は全部揃へて後の幹事さんに引渡して来た筈ですから、今でも何処 かに残って居るでせう。あれには其の時々の幹事の手で、毎月の例会其他の記事が精しく書いて ありましたから、あれを御覧になれば、一番正確で且つ変遷もわかり、面白からうと思ひます。
 
 此の間に憲法発布があり、条約改正があり、津田三藏の露国皇太子加害事件があり、日清日露の 戦争あり、米騒動やら交番の焼打ちやら、色々の事がありましたが、学生は世間の事には超然として、 平常通り勉強して居ました。
 遼東還付後の所謂臥薪嘗胆時代でも、此節の様に靴が履かれなくなるとか、紙を倹約せねばならぬとか、 木綿に混ぜ物をするといふ程、押し詰って居ませんでした。尤も学生は、蔽衣短袴で平気でしたから、 世間の景気不景気には無関心で通られたのかも知れません。私などは、高等学校在学中は月十円、 大学へ行って十五円で、別に不自由も感じなかったものです。もりかけは八厘から一銭、一銭五厘、 二銭まで上ったかしら、湯銭は何時ももりかけと同でした。
 鹿友会の例会費は終始十銭、年一回の総会でも五十銭以上の会費を徴収したことは無かった様です。 全く隔世の感ですね、浦島太郎が夢物語でもして居る様に思はれるでせう。限りが無いから、是位で 失礼しませう。

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