鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△五十周年の回顧録
○昔語り
 私の東京へ出ましたのは明治二十一年の九月で、当時医科大学在学中の兄文五郎に連れられて、 同勢十人斗りで、上京しました。中には暑中休暇で帰省中の人もありましたが、過半は初上り の人でした。盛岡迄人力車で二日がかり、一の關迄又人力車に揺られ、それから北上川を 川汽船で石の巻まで下り、船を乗り換えて塩釜に上陸、そこで初めて汽車といふものに乗って、 翌日上野へ着くといふ訳で、六日かゝりましたが、それでも非常に早く上京が出来る様になったと 喜んだものでした。兄などが初めて上京する時は、十五日もかゝってますからね。
 宿賃は上等の宿屋で一円五十銭でした。上野広小路の雁鍋の隣の上州屋とか何とかいふ宿屋に 一晩泊って、本郷壱岐殿坂の加藤といふ下宿に落付いたのでしたが、下宿賄料は月三円のが、 一躍五十銭値上になって、甚だ怪しからんと、書生さん達が慷慨して居る時でした。
 
 鹿友会には其の月から入会したのですが、未だ会員の数は多くありませんでした。最初の 例会に九段下俎橋の玉川堂といふ筆屋の裏座敷が貸席になって居て、玉川亭といひましたが、 そこでした。後年入口が別になりましたが、其頃は、筆屋の店の方から這入るのでした。席料も 半日使用して五十銭位の様でした。会費は十銭で、煎餅でも噛りながら、先輩のお話を聴いたり、 一緒に遊んだり楽しく半日を過したものです。
 
 石田、内田、石川、青山等の諸先輩は、最う東京に 居られず、兄や川口さんなどが幹事で、兄が専ら御世話をして居た様でした。此時一緒に上京 した連中五六人一度に入会したので、非常な大量入会といふことでした。
 内藤さんや川村さんは、 私共より一年前に上京せられましたが、内藤さんは逸早く東都文壇に頭角を顕はしかけて 居られましたし、川村さんは既に高等学校に入学して居られました。内藤さんの名声し、秋田師範 時代から、郷里の子弟の間には実に嘖々たるものでしたが、川村さんの奮闘努力ぶりに至っては、 又惰夫をして立たしむるに足るものがあり、我々に多大な刺戟を与へられたものです。同君の 入会は、私共より少し後れた様でしたが、何しろ非常に忙しく、心身を使って居られたので、 例会などに出られる暇もなかったのでせう。形式的には入会しなくても、精神的には無論会員として 誰でも尊敬し、儀表としたものでした。

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