鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△五十周年の回顧録
○昔語り
 鹿角から出た学生は、斯うして少くとも月々一回顔を見合した丈でも、お互に励みにもなり、 又相互の監督にもなるといふ訳でした。実際、真面目に勉強しない人は、極りが悪いから、自然例会にも 足が遠退り、さういふ人には御互に意見でもして、之を正しく導かうといふのでしたから、会員は 学生本位で、それが正会員。先輩は賛助員とか維持員とかいふ名目で、又よく御世話下さいました。
 
 其頃の大先輩として、最も学生の面倒を見て下されたのは、折戸亀太郎先生で、猿楽町十四番地かに 御住ひで、文部省に出て居られました。磊落で、そして御親切で、会員は誰でも出入りして居たものです。 奥様も確りして、そして優しい、誠に良い御方で、日曜などにお伺ひすると、屹度誰か他の会員も 行て居るといふ風でした。私共の上京する迄は兄や、小笠原勇太郎君や、三四人の人が寄宿さして 頂いてましたので、本会創立当時は、此の折戸様の御宅が鹿友会の本部の様な形でした。会誌第一号の 発行所は、確か此の御宅になって居たと思ひます。
 
 私共が上京してから、余り大勢なので、そこに御厄介になる訳には参らず、兄が総大将になって、 加藤に下宿したのでしたが、それから二三年の間は、常に十人内外の会員が、そこに固まって居られ ましたから、自然加藤が本部の様な格好になりました。それでも正月の休暇などには、一同折戸さんに 押しかけて、二日も三日も居浸りで、歌かるたを取ったり、トランプをしたり、賑やかなものでした。
 猿楽町から富士見町へ越されたり、牛込に越されたりしましたが、何処でも同じでした。後になって 考へて見ると、御暮し向きも余り楽でも無かった様でしたが、少しも御迷惑の御顔もなさらず、 良くもあんなに世話をして下されたものだと思ひます。

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