鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△五十周年の回顧録
○創立当時の思出   青山芳得
 創立は明治二十年とすれば、吾輩の当時築地にあった海軍兵学校に入学の翌年なれば、 会員の重なるものは、石田八彌君、内田清太郎君(工部大学在学)、大里文五郎君(大学 医学部在学)、井上伊太郎君(陸軍士官学校在学)、阿部某(職工学校在学)、石川壽治郎君、 吾輩(海軍兵学校)位のものと記憶す。湯瀬禮太郎君、山本祐七君(職工学校在学)、森内某 (陸軍幼年学校在学)の諸君は、当時会員なりしや否やは不明なり。
 当時学生は、所謂衣は骭に至り、袖は腕に至るの格好で、白昼声高々と、風は蕭々として 易水寒し、壮士一たび去て復た還らず、など詩を吟じ、市中を俳諧したものだが、工部大学と 陸海軍学校は金釦の制服あり、吾輩等は文明開化の先達者の如く世間に認められ、且又優待を 受けたものである。虎の門の工部大学と築地の海軍兵学校は近いから、日曜日には誘ひ合て、 鹿友会の会場、上野又は隅田川に出席した。
 
 然るに茲に問題が起った。と云ふのは、兵学校の生徒は、私用外出中、馬車又は人力車に乗ると、 柔弱なりとして私刑の制裁を加へられるから、幾ら遠くても徒歩だ。所が工部大学の連中は、 一簾の紳士を以て自任し、人力車を主張し、茲に車力党と徒歩党と対立し、一二回は徒歩党に 同伴したが永続せず、会場の遠い場合には、単独行動を採ることになった。
 
 会員中唯一の官員様に、折戸亀太郎君があった。神田に一戸を構へ、可なり間数もあったから、 大里文五郎君も同居することになり、交通の便もあり、何時となく鹿友会の会場となり、吾輩等 徒歩党も大に助かった。
 明治廿一年に兵学校は江田島に移り、以来吾輩は学校卒業後、海上生活に入り、鹿友会の消息は 多く知る所なきも、大里文五郎君中心に折戸君の家は、鹿友会々場となった様な訳で、此際折戸君の 霊に対して感謝せねばならぬ。
 
 当時吾輩は甘党であったが、辛党では内田清太郎君と石川壽次郎君が両大関であった。或日例に 依て、向島言問団子に集会し、舟遊を試みた。会費は何程であったか記憶にないが、序でながら、 吾輩の経済状態を白状する。兵学校生徒は日曜日外出の時、金拾銭を当日の弁当料として支給 せらるゝのであるから、会費は此程度のものであったらうと思ふ。併し石田君は男爵家の御曹子 として特別に出資することもあった。此日、相当の酒肴の用意もあり、石田君の如きは、蘇東坡 気取りで、赤壁賦を吟じて気勢を挙げた。阿部君は良い気持で着物を脱ぎ、水に飛び込んだが、 酔って居るから自由に泳げないで押流された。甘党の吾輩と山本祐七君は此所ぞとばかり飛び込んで、 救ひ上げたこともあった。阿部君は尾去澤の人で、職工学校卒業後消息絶え、行く所を知らずである。

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