鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△五十周年の回顧録
○思出のまにまに   湯瀬禮太郎
 鹿友会の昔に遡って、思出の二三を述べて見やう。何んと言っても、鹿友会の揺籃時代は、 上野公園が本場である。摺鉢山を背景として、三宜亭や、精養軒の門口の韻松亭などが、 重なる会場であった。偶には石田八彌氏の主催で、揚出しの隣青陽樓にて洋食の御馳走に 舌鼓を打ったものだ。又ある年には毛馬内町長岩泉源藏氏上京の折、麻布の奈良某宅に、 鹿友会員を招待されたことがあって、其の突飛さに目を見張ったものだ。同氏は毛馬内切っての ハイカラで、頭髪を前より後頭部にかけて、キチンと分けて居て、仲々の雄弁家であった。
 
 夫より星移り、歳変って、会の中心は神田、本郷となって、或る時大里文五郎氏郷里より上京、 駿河台御茶水橋際の寶亭に総会を開いた。其際自分は、何か謝辞様のものを述べた。すると 文五郎氏が簡単々々との水を入れた。之れを聞いて直ちに退場とやうと思ったが、その儘腰を 据へた。席上何のはずみか、菅原道眞の「東風吹かば」の和歌が話題に上った。自分は小塚原を 連想して、「こち」とは北風のことだらうと言出せば、武八郎氏がそれは東風即春風の事だと 説明され、一同大笑した。其の折の女給が、鹿友会場を「鹿友会場ロクユウカイバ」と連呼したのには 驚かされた。それより本郷真砂町の彌生亭で、満洲より帰朝の内藤湖南氏の歓迎会を催した 時の幹事は、佐藤良太郎氏であったらう。
 
 現在元老会員内田平三郎氏は、年六十に近く、夫人は盛岡出身、子女八人、孫は三十二人、 何れも健在なる趣、斯る目出度子福者の会員を有するは、本会の名誉の一つと思ふ。此度の 記念祝賀会に於て、此の如き会員を何にかの形式で表彰したならば、どんなものであらうか。

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