鹿友会誌(抄) 「第四十冊」 |
△嗚呼 關善次郎翁 小田島徳藏 翁は平素至極達者な方であったが、二年ばかし此の方腸胃を害され、何うも気色が 勝れなかった。其後再度上京して、斯道の大家に診て貰ひ、帰郷後も、いろいろ治療の 手を尽された様であったが、遂に回春を見るに到らなかったのである。嗚呼! ものみな新生の春に甦る五月二十七日午前七時四十分、關善次郎翁宿痾遂に癒ひず、 鴻焉として蟹澤の別邸に於て逝去さる。 翁は明治五年、先代善次郎氏の長子として生れ、襲名以前は徳太郎と称された。 資性温厚篤実、己を持するに恭、他に対するに敬、幼時より俊敏の誉れ高く、花輪小学校 卒業後、關眺翠先生に就て和算の奥義を習得し、石垣又兵衛先生に就て漢学を学び、又 若年の頃一般市井の友人と交らず、關久兵衛翁に私淑し、宝生流の謡曲を学び、俳句を 習ひ、俳名を如竹と号す。 之は当時鹿角時報の追悼文であって、能く翁の為人を尽して居ると思ふ。尚翁の趣味 としては、謡曲・俳句の外に書道にもいそしまれ、撫松と号して、晩年扁額なぞを能く 知人に書いて与へられた。翁の郷土の為めにされた諸々の事業方面については、葬儀当日に 花輪町長が読んだ弔文が能く之を網羅して居る。 「惟ふに、關氏は天資高潔にして温雅、常に慈顔温容、春風に座するの思ひあらしむ。 識見高遠にして、機智縦横、義侠的精神又旺盛にして、私財を投じ、幾多公共事業に貢献 せられたる功績、青史に伝ふ可きものあり。 大正十一年選ばれて町会議員・郡会議員となり、次て県会議員となる。県政及町政に 参与する事茲何十余年、其の間、更に所得税調査員、学務委員、市場常設委員の任務に 関与して、町勢の進展に貢献せられたる功績又枚挙に遑あらず。更に又力を郡内産業に尽し、 北鹿酒造組合を初め、鹿角郡木炭同業組合、鹿角郡医療組合、合の野耕地整理組合、大湯町 外二ケ村耕地整理組合その他各種実業団体を主宰して、幾多の事績を貽す。本郡産業界の 今日ある、蓋し氏が不断の熱誠に由る所、頗る大なるものあり。」 前文の中に『機智縦横』とあるは、翁は謹厳な人なるに拘らず、時々諧虚(言偏+虚)を弄さるゝことが あったからであらう。尚右の各種事業の外に、花輪実業会長として多年尽瘁され、又秋田鉄道 重役として、花輪線の開通にも非常に活躍されたのである。花輪に高等女学校の出来たのも、 翁の県会議員時代に取運ばれたのだと云ふ事であった。 翁は父翁を扶けて今日の關家の産を築かれた人で、経済数理の道には長けて居られたに 相違ないが、夫れで居てヒドク鷹揚な処のあった方で、恐らく一生人に憎まれずに終られたと 云ってよからう。 晩年政治界に乗り出して、志を得られなかったのも、其の人柄がたゝったとも云ひ得るのである。 仏家に『妙好人』と云ふ言葉があるそうであるが、(深意味は分らぬけれども)翁の如きは、澆季 の世には珍らしい、そうした言葉にしっくり当てはまる人ではないだらうか。 |