鹿友会誌(抄)
「第四十冊」
 
△立山大人を悼む   諏訪富多
 立山大人は郷土の偉人で、立山翁と晩年では天下に有名であったと言ってもよい。 一部ではかれこれ云ふたが、亡くなられて見ると、各方面にかけ換のない人物である事は よく分ったらうと思ふ。立山大人が郷土の各方面に遺した事蹟は、之から相当に価値 づけられると思ふが、今は大人に対する印象は余りに生々しいので、追悼の情は今後に 起ってくるであらうと思はれる。自他共に許した立山博士の称号は今猶耳に残ってゐる。
 
 大人は常に明朗な人であり、正義の人であった。けれども社交的に傑出した一面も忘れて はならないと思ふ。鈍重の称ある郷土にあっては、其の押出と言ひ、交際性の面白き方面と 言ひ、珍しい存在であった。大人は老いて益壮に之れからといふ処で、突然逝去せられたのは、 惜しみても余りあるものである。
 
 立山大人の残した印象は数々あるが、今少しく述べて見れば、大人は何分博士と言はれる 丈に、其間口の広い事は驚くばかりで、自分等が之れなら博士も分るまいと話して居ると、 いつともなく話を横取りされるには驚いた。殊に大人は立山文庫を創設して地方文化を 向上せしめたこ事は、偉大なる功績を遺すと共に、大人の博学多識を物語るものである。
 
 農業上の施設に至っては、数限りない影響を郷土に与へて居る。就中、鹿角米の改良は、 立山大人に負ふ所が絶大であった。其他勧業上の施設で郷土に範を垂れてゐるものは少くない。 農聖の遺風は、之を大人に求むべきであらう。
 晩年には観光事業と、国体の本義に立脚した国の華会に多大の尽力を払はれた。
 
 十和田湖の国立公園に至るまでのイキサツは、地方歴史の一劃期をなすものであるが、 大人が殆んど大部分に参加したといふてよい。実力を以て押し通した正しい努力は、他日顕著 たる事蹟が認めらるゝだらうと思ふ。日本観光地聯合会に於て、十和田湖の立山として 認められた事は、未だ郷土の人々は余り知らずにゐるけれども、日本観光事業の名物男でも あった。
 老いて益々壮かんに、朝鮮・満洲に観光地大会を主張した意気は、郷土の人とも思はれぬ 明朗性を発揮して、当局初め各観光地の人々をして尊敬せしめた。之が下準備として、 飛行機に乗った事は、全く郷土の先輩として、百尺竿頭、一歩を進めたものであった。
 
 敬神に伴ふ国体の本義に早くより目ざめた大人は、神道に造詣深く、農業初め社会の各方面 に及ぼす影響を洞察してゐた。今や支那事変に伴ふ皇国の自覚によって、大人の先見は益々 光輝を発するものである。
 明治天皇の御製に感激して、国の華会の創立に多大の尽力を払はれた事は、他日、国の花の 実を結ぶ時代はあらうと思ふ。国の華会の組織及び維持は、立山大人の如き天下に交遊ある 人にして始めて出来得ることである。大人が亡くなられてから頓に寂寥の感あるのは止むを 得ないが、大人の志を継いで若い人々が奮起してほしい。
 
 一体立山大人の如き人が、郷土に続出したら、今少し郷土が発展してゐると思ふにつけて、 追悼の情が禁じ難い。今は惟大人を惜しむの余り、匆々の際、短文を綴って本誌に寄するもの である。他日を期して筆を擱く。

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