鹿友会誌(抄)
「第三十九冊」
 
△仁さんの思ひ出
 兄樹人なんかに誘はれ、俳句を始めたのは其頃だった。頭がよく、夫れに何事にでも凝り性な仁さんは、 間もなく曲水の同人として水巴先生にとても可愛がられて、樹人、苔兩、長頸子等と共に、早くも 幹部級に登られた。余は此稿の最後に些か摩山水(仁さんの俳号)の俳句に就て書かうと思ふが、 私などが死ぬ迄かゝっても及びもつかぬ程、仁さんの句は進歩的なもの、勝れたものである。
 
 斯くして仁さんは、多分大正九年頃、農芸化学専攻の農学士として世に出られ、東京市衛生試験所の 技師となられた。あの綺麗な仁さんが、三河島の汚物処分場や下水の仕事をする事になったのも、 面白い事であった。
 其頃私は、伊豆の韮山中学から大舘中学に移ってゐたが、何時か小樽市の下水研究会からの帰りかに、 大舘に颯爽たる背広姿を現はした事があるが、お互に髭なぞを蓄へた二人が、ある旗亭で飲み、其時 仁さんの粋な端唄の一節が、田舎教師の野暮な私を喫驚さしたのであった。
 『此処まで来たら久し振りで花輪へ行かう』と云ったら、『行けば親類を全部廻らねばならんし、 今度にする』と云ったので、矢張り仁さんは苦労人だ、細かいところに気をつかふと、つくづく思った 事だったが、夫れが遂々仁さんの故郷に行かずじまひであった。
 
 其後盲腸炎の大患をわづらひ、一人息子を血と涙で育てられた母堂の手厚い看護に救はれ、多分東京の 生活は健康に無理だといふので、昭和五年八月、、高知県立農学校に教鞭をとる身と転向された。 『室戸岬西にまはればうら悲し、高知の浜の白き砂見ゆ』と、スバル派の歌人が詠じた其土佐の白砂が 目に映じた時、仁さんは好きな俳句を考へられるよりも、競馬などを楽しまれた華やかな東京の生活を 思ひ、漂浪の感胸を打つものがあったらうと思ふ。
 
 仁さんは余り手紙を書かぬ人であったし、あれっきり会はぬ私は、仁さんの教員生活に就ては精しく知る 由もなく、只釣を楽しまれてゐると聞き、仁さんらしいなと思ひ、釣ってきた鮒かなんかで、凝った銚子を お嬢さんに酌さして、悠々自適の生活を営まれてるとのみ思ってゐたが、最近大谷碧雲居氏が曲水に物した 追悼文に依ると、寧ろ意外と思はれる程な立派な教育者の生活に終始されたらしい。以下碧雲居氏の文を 抄録する事を許して戴き度い。
 
 『生徒が摩山水君に悦服すること異数であると同時に、摩山水君の学生を愛することも亦一通りでは なかったといふ。寄宿舎の舎監もやれば、又運動部長でもあり、学生にとっては慈父でもあり、愛兄 でもあった。或る時校庭にプールを作らうとしたがなかなかそんな贅沢な予算はとれない。『よろしい、 僕が作ってやる』 − 摩山水君は自分で鍬を揮って土を掘り返し出した。学生達が鋤や鍬を提げて集って 来る。この意気と努力とでとうとう立派な水泳練習場が出来上ったといふことが、逸話の一つになってゐる。
 さうした半面に、忙しい校務を処理して、自分の研究も怠らない。去年の春頃から健康を害しながら、 なほ一日も業を癈さずして勉めた。天成の教育家といふか校長はじめ同僚に敬意を払はしめ、全校生徒の 信愛を集めたこともも誠に所以なしとしないのである。
 
 趣味は園芸、スポーツ、劇、落語、釣など行くとして可ならざるなく、食通としても相当のものであった。 本年七月七日、幾多の春秋を残して四十四歳の生涯を終った。遺骨は東京に帰り、同二十五日芝白金興禅寺 で葬儀が行れた。』
 
 遂々おしまひまで碧雲居氏の文を借りてしまったが、誠に趣味の上にゆくところ可ならざるはなきが 如く、又凡ゆる人生の歩みに於て、仁さんは自己を完成してゆかれる人だったのだ。生徒に卒先して鍬を持つ 仁さんの姿に、私は心から頭の下る思ひがする。

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