鹿友会誌(抄)
「第三十九冊」
 
△仁さんの思ひ出   阿部六郎
 仁さんの家は神明社の石段の下で、冷たい御手洗の溢れ水が其儘仁さんの古い家の石垣 の下を流れゆく閑静なところだつた。私と仝じ二十六年生れの仁さんは、若くして父君に 別れ、お祖母さんお母さん姉妹達と女許りの中に育った。優しい落ついた仁さんの性格は、 そんなところから来てゐると思はれる。
 
 仁さんと私と善藏さんとは、名の如く竹馬の友で、毎日家を変へては遊んで歩いた。 何時かお祖母さんに『六郎さんの家で何して遊んで来た』と問はれたとき、『掃除して 遊んで来た』と仁さんが答へた。掃除する事迄遊ぶと考へた少年時代の夢は、今更懐しいし、 そんなところにも大人しい仁さんの面目が現はれてゐる。
 
 仁さんのお祖父さんは、支那へ渡って貿易?に従事された方らしい。『内の藏の中に 支那のエロ人形(今で云へば)がある』とよく仁さんが教へてくれた。遂に其珍品に対する 少年の好奇心を満さずにしまったが、こんな風に春の目覚める頃まで栗の木坂の懐しい交友 が続いた。
 
 福澤諭吉を早くから崇拝した小田島の父が、母を促がして創立した鹿角婦人会 − 其百回式 が行はれたのは明治三十三四年頃と思ふから、之れは婦人啓蒙運動としては全国的に特筆しても よい位早いものと思はれるが − 其婦人会には私は母に、仁さんはお祖母さんに伴はれて必ず 行ったもの、ブリキ缶のがりがり煎餅を二人で噛り会った日が懐かしい。
 
 三十八年の花輪の大火で私の家は傾き、ある霧の深い秋の朝に、其頃通ふてゐた盛輪馬車で 私は暫し仁さんと別れる身となった。今精しい年譜は分らないが、仁さんは明治四十年盛岡 中学に入り、四十五年に卒業して上京され、上野駅近くの安宅おぢさんの所で受験勉強された。
 其頃私は青山の家を離れ、千駄ヶ谷の茶畑の家と皆が呼んでくれた大工さんの二階で、 牛乳配達をしてゐた事がある。同じ苦学仲間の親友に、現仙台専売局長平澤法人君がある。 『俺は二高から東大に進み、大蔵省に入るんだ』と豪語してゐた彼が其通りの道を進んだ意志の 強さ − 遂此間花輪で二十年振りで彼に会ひ、心から彼の出世を祝って飲み明かしたのだったが、 其平澤から二高時代の仁さんの生活を時折聞いたものだった。
 
 話が外れたが、其茶畑時代、私は一文も持たなくなって、参円持って来てくれ、と仁さんにハガキ を出したら、直ぐに省線電車で持って来てくれた有難さは、今に忘れる事が出来ない。
 二人は茶畑の丘に佇んで夕日を眺め、丁度初版が出た頃の白秋の思ひ出の事等語り会ったと 覚えてゐる − 仁さんは、私の兄弟の感化を受けて、頓に文学趣味に染んでゐた頃であったのだ。
 二高を出た仁さんは、再び東京の人になられ、大正六年頃から駒場の農学部に通はれ、瀟洒な 角帽姿と、其頃家を逃げ出し、月給二十五円也で三菱鉱業試験所に通ふ私は、新宿の駅辺で行き会ひ、 友達乍ら羨ましいと思ひ、又其美青年振りに驚いた。然し仁さんには、二高時代に芸者から 大鼓を習ったといふ粋なエピソードがあっても、真面目な恋愛事件なんかなかった。夫れ程、仁さんは 世を達観した老成振りだった。

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