鹿友会誌(抄)
「第三十八冊」
 
△小田切さん   札幌 澤田信
 十二月二日。昼休みに帰宅して見ると、小田切さんの訃報が来てゐる。午前十一時 自宅告別式、午後一時出棺といふ通知である。時計を見ると、もう一時半である。間に 合はないが、引き返し、電車へと急ぐ。どうも信ぜられない御不孝である。特にお元気の 様に見受けられた小田切さんが、亡くなられたとは、全く考へられない。
 
 小田切さんに御逢ひしたのは、只の二度である。昨年の新年宴会で始めて御近づき を得、二度目は今年の新年宴会の席上であった。両度とも、私達鹿友会の世話人の小田切 さんが会をお纏めになってゐられた。
 二十数名の会友が着席すると、大広間の下手に端座してニコニコし乍ら、開会の辞を 述べられた。歯切れのいゝ言葉であった、重厚で、暢達な御仁であられた。窮屈な標準語 が、鹿角訛りに変り、一同がユックリと鹿角人に寛いだ時分には、猪口を持って、一人ひとり を廻られるのであった。若輩の私に迄、気持ちよく御話をきかして下すった。
 
 私は小田切さんへの乏しい追想を反芻し乍ら、電車から下りやうとすると、十数台(?)の 葬儀自動車が徐かに通りすぎるのであった。云ふ迄もなく、今は悲しい御姿の小田切さんの 御葬式である。私は目礼を捧げつゝ、暫くの間御見送り申上げた。薄暗い秋の昼さがり、 泥道に残した自動車のあの悲しい轍! 人の世の運命サダメは、今更に想はれる。
 
 恩出棺後の混雑で、御宅は忙しかった。御身うちの方は皆小田切さんの御供に出られた といふ事であった。床間に飾られた、今は御写真の小田切さんに篤く額づいて、余りに 浅かりしこの御縁、そしてそれにも拘らず、私の胸中に生々と印象づけられてゐる小田切さん の御人柄を思ひ、不覚の涙の滲み出るを禁じ得なかった。私達は一人の惜しい先輩、いゝ人を 失って了った。小田切さんの余韻漾う御住居を訪ねるのは、これは最初で最後となった。

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