鹿友会誌(抄) 「第三十八冊」 |
△噫 小田切善六君 奈良一藏 三むかし前に別れ、しかも其間一度親しく快談、それ以来年賀の交換のみで、昔ながらの 友交を続けて来たに過ぎぬが、善六君は僕の親しい友の一人であった。 明治三十五、六年頃、善六君は秋田の農学生、僕は中学生、何う云ふ動機で話し合ったのか 忘れたが、外に二、三の友を語らひ、楢山の湯瀬銀治氏?の借家で自炊生活をはじめた、 軈て屋賃が高いの、米が高いのと難癖を付て、或る大晦日の暁、夜逃げ同様に保土野中島へ 引越し、飛んだ茶番を演じた事が未だに深く深く印象に残ってゐる。 善六君は農学校の特待生、三十七年?に首席で卒業、そして秋田農工銀行へ就職したやうに 記憶する。僕は信州善光寺如来様のほとり、長野大林区署へ勤務、其後手紙の往復のみに過ごし、 大正四年頃宮内省御料局から東北地方の商工視察として出張し、秋田駅前の木村旅館に宿泊、 約十二年振で再び善六君に会った。むかしながらの笑顔と元気いっぱいの快男子、夜の酖け 行くのを忘れて、共に語り合った。 其時善六君の話として未だ耳底に残ってゐるのは、或る一日、あの謹厳な川村才太郎先生 を無理鎗、川端へ案内して恐縮した事があった云々と。 爾来二十有余年、再び会ふ機会を得ずに、今日の至った。善六君の立身出成するのを見、 友の栄達を独り心から喜こんでゐた。 もう一度出会って、膝つき合ひ、親しく昔語りでもと思って居たのに、其友は既にうつし世を 去って了った。実に心残りである。 昔、贈られた、善六君の写真を取り出して見、むかしの事がまざまざと頭に浮び、哀悼の 余り、ありし昔を偲び、以て善六君の霊に捧ぐ。(十二月三日) |