鹿友会誌(抄)
「第三十八冊」
 
△鹿角に対する感想 町井正路
 貴重な紙面を割愛させて戴いて、故郷に対する感想を述べて見たいのです。 私は明治十一年に花輪で生れたのですが、幼児に於ける花輪の記憶は皆無です。 小坂の小学校に居た事ははっきり覚えて居ます。然し九才で東京へ出て了ったのに、 其後五十年を経過して今日に至る迄に、たった三回郷里を見舞っただけですから、 記憶の貧弱なのは当然です。父は小坂鉱山に勤めて居ましたが、工部省と云ふ様な 名に依て支配されて居た大昔の話です。鉱山の毒気に中てられて働けなくなった のでせう、鉱山測量から鉄道測量の方へ廻されて信越線の起点であった越後の 直江津へ行くべく命ぜられ、吾々は郷里に別れを告げることになりました、 其の時妹のフミ子と云ふのが、悲しい事には今は母と共に最早此世には居りません、 生れたばかりで長途の旅に堪へないと云ふので、一人花輪へ残されたのです。 彼女の預けられたのは故小田島由義氏の家です。私等は郡長様と御呼申上てゐました、 鹿角の大恩人の一人です、父の親友として赤子を預って下さったのでせう。
 
 私が十五才の時に其の妹を受取るべく単身使者として派遣されました、 之が私の第一回の郷里訪問です。私は独りで東京に居たので父母や弟妹等と 親しむ機会が少ないし従て郷里の話を聞くことも少なかったから、 見る物聞く物が尽く珍しく、親戚や父母の知己の訪問を受け、又招待されるのに 忙殺され多角多面なる人間世界のグリンプスを朧気ながら感取し郷里と云ふ 愛情に満ちた思想を抱くを得るに至ったのでした。其の時故小田島先生から 御維新の際に秋田を攻撃するべく出陣した御話を承り、父は二十才未満の青年で 侍大将であったと云ふ様な、私の未だ嘗て耳にしなかった武勇談を聴いて 霊を躍らせたのでした、然し此の私の郷里訪問に於て人間として重大なる一事が 忘れられてゐるのでした。墓参と云ふ事です。詩聖ウオズウオルスの霊魂不滅の 歌の中に三才の児童が祖父の墓に呼びかけて居る処がありますが、私は その児童より低脳だと云ふ事を耻ぢてゐます。然し父親の影響も亦多少関係がある 様に思ふのです、父は前に申上ました通り小坂鉱山に勤めて居た時に工部省の 御雇教師であった独逸人について教へを受けたのでコスモポリタンと云った様な 人格になって了ったのです。之に対する逸話も沢山ありますが、又其の悪影響を 受けて故郷に対する情が薄く、祖先の祭を怠ると云ふ様に見え、従て私も故郷に ついて予備智識を持たず、先祖代々の御墓のある御寺も知らなかったのです。 実に言語同断です。
 
 私の第二回目の郷里訪問は二十二才の時で、帝大在学中でした。卒業論文の 資料蒐集を目的とする旅行で、郷里へ立寄て十和田を見ると云ふ予定でした。 然し又前回と同様墓参と云ふ事は恰も皆既日蝕のそれの如く全々忘却して居ました。 十和田の雄大な事は実に予想の外で、其の風姿は偉大なる人格に似て 見れば見る程其の偉大さを増すのです、丁度其時詩聖シラーのウィルヘルム、テル を愛読して居たので、特に感慨措く能はざるものがありました、英雄テルの故郷は 山嶽地方で、大湖水があって、それが四ツの県に跨て拡って居ると云ふのですから、 十和田の風景とそっくり生写しなのです。
 
 第三回目の訪問は最近行ひましたが、目的は墓参で他に何等の要件を 持て居なかったのです。御先祖の菩提所は花輪の恩徳寺と云ふ御寺の境内にある のでした、先づ住職の岩舘洞扇様に御目にかゝり御墓へ案内して戴きました。 寺の周囲の平地に沢山の立派な御墓がありましたが、御坊は其処を通り抜けて 裏山の急勾配を登る事稍や久しく、垂直にして百尺位のケ所に十個ばかりの古びた 墓石の立ならんだ処へ立止まり、合掌され、読経を始められたので、之が 御墓だと云ふ事を承知しましたが、耻かしくて正視する事ができませんでした。 御坊と共に方丈へ帰る途中、御墓がなぜあの様な山の中腹にあるのでせう、 と質しますと、御坊の答は簡単でした。「それは身分の高い事を証明して 居るのです」と。
 
 方丈は裏山を背景として立派な庭に面した落付のある室でした。私は五十年 と云ふ長い年月、御墓を無縁の状態に置き、忘却して居た事を耻ぢる旨を 告白致しますと、御坊は破顔一笑、「無縁」なるものは存在せざる事を説かれ、 五十年或は八十年目に御先祖の霊から招ねかれて墓参をした実話を御話し下さいました。 御坊は稍や久しき沈黙の後に徐ろに口を開いて、「恩徳寺に於ける町井さんの 菩提所は寺の存続する限り無縁となる事は無いのです」と申されたので、其理由を 御尋ね致さうとすると、御坊はすぐ続けて申されました。「最も大切な位牌として 代々の住職が引継の際に申渡されるものの内に町井家の位牌があるのです。 此の伽藍の大黒柱の凡てが町井左平治と云ふ御仁が寄進されたものです、 それですから寺は即ち町井家だとも云へるでせう。過去帳を見ると四代目左平治 と云ふ御名を見ますから、果して何代目左平治様か判明致しませんが、寺を再建立する 際に役立てやうとの御考から境内に沢山の杉を植へて、其の発育に努力された事は 明白です。其後今から約四十年前、花輪町の市の日しかも日中悪鳥が寺院の屋根に 火を落したと云ふ不思議な事件が起って、寺は全焼したのです。其の時に左平治様 の植へて置かれた杉が大黒柱となり得るだけの大木となって居たと云ふ訳です」と。
 
 私は初めて御先祖様の逸話を拝聴して諸霊に圧迫される様な感を生じ、 残りの生涯を郷里の為めに尽さねばならぬと決心しました。それで差当私にできるのは 肥料に関する事柄ですから鹿角の全農家の使用する全肥を半減して従来と 同一の収量を挙げさせると云ふ仕事をしたいと考へてゐます。

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