鹿友会誌(抄)
「第三十七冊」
 
△道隆さんのこと   小田島信一郎
 私共が花輪の小学校に通ってる頃、花輪の吉田さんといへば、其豪華なる生活振りに於て、 四隣を圧したものであった。当時の主人公清兵衛さんが、日本一の富豪岩崎に 倣って堂々たる石の塀をめぐらしたり、動物園にもまがふやうに、田舎ではとても みられない珍しい外国産の鳥や獣を飼ったりして、王侯貴人のやうな華やかな生活を されたことは、子供心にもはっきり印象に残って居る。
 
 其吉田さんの何番目かに生れた道隆さんであった。私共は、道隆さんに連れられて、 其宏壮な邸宅に遊びに行くことは、大きな楽しみでもあり、誇りでもあった。
 道隆さんは、大家のお坊ちゃんには珍しいおとなしいすなをなお子さんであった。 兄さんの豊さんはとても乱暴で、喧嘩ばやくて、からだもがっちりして居たが、道隆さんは、 色白の美少年といふよりは、寧ろ貴公子然とした風貌を備へて居たので、私共同級生は、 誰もが道隆さんに惹きつけられ、親しんで居るやうにみえた。
 其後吉田家の家運が漸く傾いて、いつの間にか、あの宏壮なる邸宅も消えてなくなり、 吉田家の人達もだんだんに花輪の土地を去ってしまったやうであった。
 
 その間に道隆さんは、盛岡中学から京都の高等工芸学校に進み、私は大館中学から郁文館へ、 それから六高、帝大と長い学生生活を続けて居たので、お互相会ふ機会がなく、二十余年の 歳月が流れた。
 その長い間に、どっかで会ったやうに覚えて居るけれど、はっきりしない。
 
 大正十三年春行われた衆議院議員総選挙の時であた。私は郷里に於て浪人生活を送って 居た時だったので、物好きにも其渦中に飛び込み、現商相町田忠治氏の運動員となり、 尾去澤鉱山の社宅に戸別訪問(当時の選挙法では戸別訪問は認められてあった。) を試みたのである。
 その時二十何年振りかで会ったのは、道隆さんであった。嬉しいやら、なつかしいやらで、 直ぐに相擁して昔の思ひで出を語り合ひ度かったけれど、時正に政戦最中、そんな余裕もなく、 道隆さんのうちの玄関で立話をしただけで、相別れてしまったのである。
 
 それから七八年の月日が立つ。
 渋谷代官山アパートの娯楽室で、吉田慶太郎氏夫妻の歓迎会が開かれたとき、道隆さんも顔を みせられた。お互にもう五十に手のとゞきさうな年になってしまったので、心の中では、 ふけたなーと思ひながらも、やはり思ひ出は昔の少年時代にさかのぼる。
 
 道隆さんはこの時、あまり健康らしくはみえなかったが、昔ながらの好男子の面影が残って居る ので、弱々しい感じがするほどではなかった。吉田さんの一族でも、耕造さんなどは、 元気一杯でこの時も、美声を張り上げて追分を唄って、代官山の人達を驚かしたほどであったが、 道隆さんは黙々としてみんなが演ずる郷土芸術にきゝ惚れて居るようにしかみえなかった。
 
 それから更に二年余の月日は、瞬く間に過ぎ去った。
 越ケ谷にうちを建てられといふことを きいて居たので、一度は訪ねてみやうと思ひながらも、俗事多忙、つい其機を得ずにすぎて居ると、 突然の訃報に接し、私は非常に驚いたと共に、残念で残念でたまらないのである。

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