鹿友会誌(抄)
「第三十六冊」
 
△弟武男の死について   黒澤隆朝
 「タケヲヤマヒキウヘンスクコイ」の電報を受けたのは、九月三十日の午後十時、 蒼惶旅装を整へて、上野に向ふ時間もないので、赤羽駅に出て青森行の終列車に乗った。
 足が一歩花輪のプラットホームに触れようとしたとき、同級の友阿部太郎君の慇懃なる 面持ちに先づ打たれる物があり、つゞいて「何うもイダミタゴドヲシタンシナ」といふ 挨拶で完全に判決が下され、「はア何うも困りました」と反射的に肯定してしまった。 私の足は、身体は急に思い鎖で締められる思ひをした。
 
 我が家に着き、声を挙げて泣く人々に導かれて、死体の横はる部屋にはいった。白い布を 取って、手は自然に広い額に行った。冷い感触は不気味に伝って来る。「もうだめだ」 と言ふ外に言葉が出なかった。
 泣いた、泣いた、たゞ涙が湧きでて来て困るまで泣いた。
 弟は十月一日午前六時、三十歳の短命にして地に帰したのである。葬儀は花輪の各方面の 人々の御同情によって、功なり名遂げた名士の葬にも比すべき盛大なる観を呈し、弔詞等も 十にあまる程の御芳情を賜った事は、黒澤家の光栄は勿論、故人としても非常に満足して居る 事と思ふのである。
 
 弟は花輪小学校を出て、青森県三本木農学校に入学したが、家事の都合で花輪に帰り、 曙小学校に教員となり、小生の音楽学校卒業と共に、東京麻布獣医学校に入学したのである。
 卒業を目前にして病気休校したが、二三年後此所を完全に卒業し、獣医の免状を得、 後、病父を助けて神職を嗣ぎ、社掌社司と昇任した。国勢調査員、方面委員、救護委員等の 県下最若年者としての名誉を私かに誇ってゐたが、今にして見れば、彼の生涯は実に 人生五十年の縮図であったのである。

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