鹿友会誌を紐とく
第三十六冊(昭和9.1)
 
△「野人ぶり 奈良野人朗」(別掲)
 
△「土地と人 (静岡)小田島軍八」
 私は、時々郷里鹿角を想い起こします。永く他郷にあって旅人のような生活をしてい ると、郷里の人はたまらなく懐かしくなります。そして他国の人々に比較して、郷里の 人達の人間としての偉大さをつくづく感じさせられます。
 
△「鹿友会を知ってから入会まで 汲川義範」
 私がこの会を知ったのは小学六年の時、姉に会の内容や事業などをまかされ覚えた。 当時私の家は貧困であった為、中学校に入ることが出来ず、小学校卒業後は駅夫をして いたが、勉強したくてたまらず、旅費だけ持って上京したのは、大正十二年八月二十三 日、間もなく大震災にあい、生命びろいはしたが、滅茶苦茶な生活をした。自由労働者、 新聞配達、牛乳配達、職工、畳職人、客車清掃等いろいろな仕事をした。
 泊まる家なく、野宿、駅の客車の中等、仕事にあぶれると、一日でも二日でも無食飲 水主義であった。
 こうして年々歳々年を重ね、中学校を出たのは二十六歳の時、専門学校へたどりつい たのは一昨年でした。
 今年五月、期待していた鹿友会に入会しましたが、期待は裏切られました。集まりが 余りにも少ない、鹿角人の団結心の欠乏が感じられる。
 
△花輪 川村薫
 鹿角は、鹿角に残された人達の鹿角ではなく、鹿角に生を受けた人皆の鹿角である。
 
△大湯 小笠原牧太
 大げさなことはさておき、せめて商品製造的な教育はしたくない。人間らしい人間と して、農村でも米を食へる様にしたい。
 
△東京 高瀬正助
 今年十年振りで花輪に帰ってみました。変わらぬものは、豊年祭りと切りタンポの味 だけでした。
 
△盛岡 阿部清
 年一回位、秋田県人会が盛岡で開かれますが、どうもしっくりした親しみがありませ ん。やはり郷土愛は、争はれないものと思はれます。
 
△例会
 第二百四十六会例会、昭和八年十一月、芸術に関する話
 
△会員名簿(昭和八年十二月一日)賛助会員二十三名、
 正員、東京附近百十九名・地方百二十九名・郷里百十二名

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