鹿友会誌(抄)
「第三十五冊」
 
△自作農会報 奈良野人朗
 徳富芦花氏の農事文中の一節に「あらゆる生活の方法の中、最もよきものを択み得た 者は農である。
 農は神の直参である。自然の懐に自然に支配する自然を賛けて働く農民は、人間化し た自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰を神とすれば、彼等 は神の直轄の下に住む天領の民である。神とともに働き神と共に楽しむことを、文義通 り実行する職業があるならば、それは農であらねばならぬ」と。かるが故に野生は農 を択んだのであると、誇称する次第ではない。が生来何一つ能を持たぬ野生は、(農 をみくびるやうに響くが)ポカーポカーと土を掘るくらい分相応と考へて百姓の真似事 をする気持ちになったのである。
 
 何も殊更らしく名乗るまでもないが現在野生は、三反歩の自作貧農一年生である。
 家族共は野生の百姓仕事に共鳴がをしてゐるが、別に手伝はうともしない、ではない 一切手伝無用と、耕耘、施肥、播種、除草、収穫まで、たった一人で脇目も振らずに、 コツコツと働いてゐるのである。
 雪解から、降雪まで、約二百日間の内、天好不良の日を除き、約三分之二以上野良行 の忙しぶりを見せて、殆んど暇がない。が会社公共の為めではなく、自分勝手な、気随 気儘の忙がしぶりに過ぎないのであるから、却て他人様に笑はれるのが精一杯で、聊か 恥ぢ入る次第である。何せ百姓仕事に、無智識、無経験ときてゐるので、段別だけは三 反歩となってゐるが、空地が多くて、お負けに、各種作物の季節を考へぬ為め、あとや、 さきになり、少しも順序が立たない。所謂行き当りバッタリ流で、ヘマのみ多く、思っ た程収穫がよくなかった。
 唯だ有り難い事には、青物、野菜類及豆類だけは自給自足で、台所の方を大分賑はし た。そして又籠の糧ともなった。
 
 野生の農業も単一ではなく、土に依る持久力と、多角的農業経営らしい方針をとり、 成るべく経済的にやらうと農業簿記をつけて収支を明瞭にするは勿論、農産物の成績、経営な どを記入い置いて、来る年の指針とする考へである。
 
 今年の農作物は、手当り次第二十有余種の内、本職の百姓連から(お世辞ではないら しい)賞められたのは、胡瓜、人参、牛蒡、トマト、かた瓜、甘藍、豆類及陸稲である。 其他はお話する程の出来ではなかった。そして種苗、肥料及傭人料共計金二十二円の支 出である。収入は(収穫物の時価見積)約三十五円で、差引金十三円の利益となって る訳だ。が然し畑地租、労銀及農業資本利子等を加算すれば利益処か、大分の欠損を 生ずる勘定となる。よしんば、利益があったとしても、三反歩自作農一ケ年当り拾円内 外では、近頃やかましい自力更生処か、自然枯死に近いのである。この程の実際を報ず るには、何も彼もカナグリ捨て、裸一貫となり、専心農業経営により衣、食、住を保持 してこそ、はじめて真の生きた報告となる次第であるが……、その辺は深く咎めず、百 姓の一年生らしい報を大笑せられたい。
 
 右報を終るに当り、会員諸賢にお計りしたい。各得意、不得意に不拘、皆さんの実生 活、即ち職業を短報せられては如何、是れが真の消息ともなり、又一面親し味を増し、 自ら啓発する処も多分かと思ふ。(七、一一、一五記)

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