鹿友会誌(抄)
「第三十五冊」
 
△俳人山紫の死 小田島十四樓
 俳人山紫とは、今年の夏、郷里に於て急死した弟禮七のことである。
 彼が俳句に親しむやうになったといふことは、死ぬすこし前に耳にしたので、それは 大へんいゝことだ。大にやり給へといふやうな意味の手紙を書いて送ったのであったが、 実は、あれほどまでに、熱心やって居たとは思ひもよらなかった。
 
 郷里に帰って、弟が急死するまでのいろいろのことをきかされたが、その中に、 死ぬ前日に、湯瀬で開かれた句会に出席したといふことや、其席上で作った句が、偶然にも 辞世の句のやうになったといふことなどあって、僕をして非常に驚かしめ、且つ感慨 深からしめたのである。
 
 弟が高崎第十五聯隊の青年将校として満洲守備軍に加はり、内地を離れたのは昭和二年四月 下旬だったと思ふ。そして、一ケ月ばかりたつと、廣島衛戍病院から、船中病に罹り、満洲の 地を踏まずに帰ってきて、療養中だといふ手紙を貰って、僕は愕然としたのであった。
 その時から、五年余の彼の生活は、全く病と闘ふ努力の連続だったといってもよかったと思ふ。 最近の二三年は病も軽くなり、元気も出てきたやうにはみえて居たけれども、精神的には 可なり苦悩が多かったろうと思はれる。
 
 彼は、僕等の兄弟中では、一番明るい、朗かな性格の持主で、何人にも好かれる方であった。 だから、軍籍を退いて、郷里で静養するやうになってからも、其接触する多くの人々からは、 必ず好感を以て迎へられたにちがひない。はたからは、故山の暖い懐ろに抱かれ、悠々病後の 静養に日を暮して居るので、何の苦悶もなささうにみえたかも知れない。
 
 僕の秘かに彼のために心配したのは、その点であった。朗かであればあるほど、快活で あればあるほど、其半面には、益々深く、前途に対する悲観の念を蔵して居ったにちがひない。 宗教によって、安住の地を求むるか、俳道によって、超越の生活に浸るか、其何れかを 選ばなければ、到底堪へられるものではない。何とかして、彼を救ってやりたいものだと 思ひつゝも、遠く離れて居るのと、俗務多忙のためとで、ついそのまゝにして居たのであった。
 
 だから、『禮七急変今朝九時死す。』といふ電報を手にした時、僕は余りに事の急なるがため、 普通の死に方ではあるまい。ことによると? といふ厭な感じが突然湧き出たのは事実だった。
 ところが、帰国してきいてみると、ほんとうに病死であり、而も死の前日に辞世の 句らしいものまでよんで、俳人として立派な往生を遂げたといふことがわかって、僕は彼の 霊に対して、哀悼の意を捧ぐると共に、そゞろに敬慕の念を禁じ得なかったのである。

[次へ進んで下さい]