鹿友会誌(抄) 「第三十四冊」 |
△故米澤萬陸君略歴 君は明治元年二月五日、錦木村末廣に生る。明治十八年藤田組小坂鉱山分析係員となり、 精励恪勤、研究心強く、夙に松籟を嘱望せらる、同三十七年七月同山精鉱課分析係長に 抜擢せられ、同三十二年一月精鉱課乾錬係長、同三十九年六月精鉱課係長に歴任し、 同四十一年一月課長に昇進す、其間黒鉱製錬其他乾式製錬に関し功労不尠、数次賞を受く。 同四十四年五月同鉱山を辞し、久原鉱業所に聘せられて、本部調査課技師に任ぜられ、 同四十五年五月日立鉱山分析課長となり、大正元年十月久原鉱業株式会社創立後も、 引続き同山にありて試験課長、買鉱長を歴任して、大正七年二月佐賀關製錬所長に栄進し、 大に治績を挙げしが、同十二年十一月日立鉱山所長に転じ、傍ら昭和二年九月日立電力株式会社 取締役に就任す。 越えて同三年十一月、途を後進に啓き多大の功績を貽して勇退し、爾来悠々自適の境地 にありしに、不孝にして二豎の襲ふところとなり、本年六月二十九日遂に易簀せらる。 君、質性温厚、身を持すること謹厳にして人に接する極めて慇懃なりき。又情誼に厚く、 後進の指導誘掖に努め、其変風は衆人の敬慕する所となりたり、君は始終不撓の努力を 以って独学、其大を成せるものにして、真に立志伝中の人と言ふべし。 併も晩年に至る迄、修養研鑽に努めて、倦む所なかりき。趣味としては詩書に親しみ、 其作亦独特の気韻を蔵せり。君は又、牢口に見る摂生家にして、壮年時代より禁酒禁煙を 厳守し、友人後輩に対して常に養生法を説きつゝありしに、耳順を過ぐる程四年にして 白玉楼中の人となりしは、天命の然らしむる所、寔に痛惜に堪へず。然れども君の意図は、 後進によりて継承せられ、其子女は何れも成人して、又後顧の憂なきを以て、君の英霊は 永へに安易静謐なるべきを信ず、君の生涯亦光栄あると謂ふべし。 |