鹿友会誌を紐とく
第三十三冊(昭和6.1)
 
△「鹿友会に対する感想 田口傳七郎」
 私が上京したのは明治二十六年、当時東北線は三戸辺りまで、花輪・湯瀬を経て、松尾 に泊り、好摩から汽車に乗り、仙台に下車一泊、三日目に東京着。当時鹿角郡から遊学 している学生は四十余名、多くは本郷辺りに居た。私達は芝に居た。
 その頃の例会は、よく上野三宜亭で開かれた。当時の東京の交通機関は、鉄道馬車で、 しかも新橋上野間、人形町浅草間しかありませんでした。又は人力車といったところで す。学校授業料は月一円位、下宿料は一ケ月四〜五円、我々貧生は仕送り七、八円、紳士 豪商の子弟は十五円の為替を受け取るのを羨ましく思っていた。鹿友会費八銭か十銭、 当時気がひけて欠席がちだった為、先輩の有益なお話を伺う機会が少なくて、今思うと 非常に残念でなりません。
 
 四五十名の学生の内、卒業証書を得た者は二十七八年頃は小笠原勇太郎氏、川村竹治 氏、大里武八郎氏等数名でありました。
 その他は病気・事故その他で、空しく帰郷した方々もたくさんありました。また数ある 鹿友会員の中で、志半ばてで物故された方も少なからずあった事は、郷土の人物経済上 の大いなる損失といえましょう。
 
 二、三年前(昭和初頭)鹿角出身の学士をこの誌上から調べましたら、二十人許りあ りました。我々の中等生の頃は、大里学士(文五郎氏)只一人で、郡内あらゆる人の羨 望となっていました。現在の発展隆盛は慶賀にたえません。
 夏期例会は年中行事とて、郷里五ケ所に於いて、それぞれ期日を定めて開催して欲し い。
 学生諸君に、最初の精神を忘れず、勉学修養に励んで欲しい。
 
△「〃 思ひ出話 佐々木彦太郎」
 私は明治三十五年の春に入った。大抵小石川指ケ谷町大里(武八郎)家、会費は二銭 ないし五銭位、用語は鹿角語で、小上清水の誰かが在郷珍語を持ち出して、人々の記録を新 たにしたことを思い出す。
 真砂町の宝亭で初めて西洋料理を食べたこと、ヒゲは焼きコテで揃えたり上げたり することを知った。
 大里家には威勢のいいお婆さんがいて、水汲み・掃除・買物を主人でも誰でもかまわず 命令し、皆柔順に服従したものです。また肴屋なども時々縁側に来て、事件の鑑定を主 人に乞うていたものです。
 その御主人(大里武八郎氏)は、今台湾の裁判官になっています。
 
 △「〃 月居忠悌」
イ、過去の思い出
 過去の鹿友会は、各町村色彩を以って一場の中に小なる割拠はありました。今は一大 集合しております。
 昔は今日の様に長幼の差、栄辱の差はそれ程なく、平等感があって、はばかることな く言論をし得ていた。
ロ、現在及び将来に対する希望対策
 @例会の数を多くする事
 A中老会員の協調を堅くし、上は元老級、下は若輩級の楔となりて、会の為に有益に 面白く、毎会を開会する様努力する様せられたきこと

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