鹿友会誌(抄)
「第三十三冊」
 
△阿部十六五君の死
 次で私は、親戚友人を代表して、口頭で以て左の通り永訣詞を陳べた。
 十六五様、顧みれば明治四十二年、貴兄が東京在学中、志を立てゝ満洲に渡航の意を決して、 私に相談されたのは、つひ昨日の如くに思はれます。爾来春風秋雨、早くも二十有余年、その間、 貴兄は一意専心、世の為め人の為めに奮闘努力して倦むことなく、一面近親や後進の為め、懇切に 温情を以て誘掖されたること多く、一族一門の柱として厚き信頼を担うて居りました、貴兄の生活は、 長くはありませんでしたけれども、貴兄が歩んで来られた過去の経歴は、誠に雄にして男らしく、 真に吾々の亀鑚として窃に敬慕いたして居りました処で、今日、民國の御方々を初め、斯くも 各方面の皆様方が御手厚く為すって下さいますのも、是れ偏へに貴兄が生前の徳望の反映と申す べく、誠に感激に堪へない次第であります。「高談再びし難し」、最早や快濶な貴君と愉快に 語り合ふ事は出来なくなりました。今此の世を去られましても、貴兄の御霊が、後に残った遺族 たちの将来のため、又満洲・朝鮮に止まって奮闘しやうとする吾々の前途を、必ずや好き方に 導き下さることを堅く信じます。謹しんで永訣の御挨拶を申上げます。
  昭和五年三月十六日
     親族友人総代 川村十二郎
 
 棺前に立って陳べた私は、中頃からは、もう熱涙止めあへず、泣けて泣けて語が詰まって、 殆んど続けることが出来ないやうになりました。会葬の方にも、皆泣いて下さったやうでした。 併し、是れだけの方々に泣いて惜しまれるのは、十六五様も仕合せな人だと思ひました、 会葬者の人に、宅へ来て下さる方に、会社の方に、支那人の人、一人として故人の徳を称へない 人はありませんでした、中には部下の人で、嘗て何かの折に、ひどく叱られた思出話をして、 故人を追慕する人もあった。これ程生前、人望を収めることは珍しいことと思はれた。
 
 殊に多年支那人側との間に折衝して、面倒な問題(電灯、電力関係の)を円満に収めることに、 独特の手腕を持って居ったらしく、手腕と云ふよりは寧ろ、徳の力であったであらう。 されば安東県の支那街で、
 「電灯会社の阿部大人」
と云へば、支店長以上、時には領事以上に人望を得て居り、信用されて居ったと云ふ事です。
 前記の如く日本人として、稀れに見るやうな数旒の大幟を支那人から贈られたのも、全く その結果であったので、十六五君は、実に安東県に於ける私設領事の如き立場に居り、 又在郷軍人会の為めにも、随分尽力したやうであった。
 
 奉天の阿部勝雄さんが、
 『叔父さんの性質は、全く祖父さん故恭助翁から授けられたものだらうと思ひますねえ』
と云った。私は全然同意を表した。ところが四畳半の茶の間に入って、何気なく梁間を仰ぎ 見ると、故南條文雄博士筆、石版刷りの「今日一日の事」の小額が懸って居るのが眼についた。 私は思はず、
 「是れだ是れだ」
と、独り首肯づかれた。
 「今日一日腹立てまじき事」
 「今日一日三つ(君父師)の御恩を忘れず、不足を云ふまじき事」
 「………………」
 「………………」
と云ふ五六ケ条書きの座右銘で、私が在京中幾度か、南條老師から講演の時に聞かされたもの であった。
 
 享年四十有八、若死には違ひない。日頃互に頼りに仕合って居った自分としては、人一倍 残念に思はぬでは無い。併し是れ程懸命に働き通し、殊に日支親善の為め努力して、人に心から 惜まれて死ぬのは、此の上ない男子の本懐では無いかと羨ましくも思はれてならない。 (昭和五、一一、二七京城に於て)

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