鹿友会誌(抄)
「第三十三冊」
 
△南部伯爵逝去
 旧藩主南部利淳伯は昭和五年一月一日午後九時、突然胃潰瘍を発して逝去された、 享年四十七歳、葬式は神式により九日、同邸で棺前祭告別式を行ひ、遺骨は一時芝金地院 に安置し、同年十一月、遺言に依り盛岡市内旧櫻山神社跡に納骨堂を建立してそれに納めた。
 故伯爵は、社会的事業に対しては、表面的活動は無けれども、現代思潮の推移には深く意を 注がれ、小学校児童の善導に着眼せられ、数年前、既に其の材料を蒐集、之が研究に身を委ね られた。其他給費生の制を設けられて、郷里の英才の養成を期せられた、産業的方面にも 幾多の計画を立てられ、南部鉄金研究所を創立せられて、優良なる古南部鉄瓶の製造を 敢行せられ、此の方面の発達に貢献される所多かった、最近又土俗研究に志され、殊に盛岡 地方の土俗を対象として史料を収集されて、其の方面にも貢献されんとする意志があった。
 
 現伯爵利英氏は、今回鹿友会に対して、故伯爵の経歴遺著等を記せる「おもかげ」なる本を 御寄贈になられた。
 
△故伯爵南部利淳閣下の告別式に奉りたる祭詞
 維持昭和五年一月九日、鹿友会会幹事長小泉榮三、敬んで故旧藩主伯爵南部利淳閣下の 霊に申す、嗚呼閣下は名門に生まれ給ひて、御幼少より心身の修養を努められ、常に忠義 道節を淬砺し、玉臣匪躬を以て任じらる、而して学、漢洋を兼ね、識東西に通じられ、 特に工芸美術に御造詣深く在らせられし、故に郷党畏敬して文治の範と為したる所以なり、 誰か思はんや、悲雁一声、閣下が帰点の報を齎さんとは、嗚呼悲い哉
 
 花は落つとも復た開く日あらん、月は虧くとも再び盈つる時あらんに、嗚呼涙雨粛々 として日月光を失ひ、悲風颯々として山川愁に咽ぶ哀み、又何ぞ堪ふべけんや、今其の 告別式に会し、悲痛惨澹、衷哭已むを不知、恭く祭詞を捧ぐ。

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